「こんなところに ナニコレ2!」

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庚申塔の解説

◇庚申塔の成り立ち(背景)
道教の三尸(さんし)説に、日本の密教・神道・修験道や、民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に習合して庚申信仰ができあがった。

三尸説によると、人間の体内には生まれながらにして三尸の虫がいる。この三尸虫は、上尸・中尸・下尸の3種類で、上尸は道士の姿で頭部、中尸は獣の姿で腹部、 下尸は牛頭に人の足の姿で脚部に潜んでいて、大きさはどれも約6㎝とされている。

三尸虫はいつもその人間を監視しており、庚申の夜に人間が寝ている間に身体から抜け出して、天に登り天帝にその人の行状を報告する。報告を聞いた天帝は、 罪状の軽重によって寿命を縮めたり、死後に六道の地獄・餓鬼・畜生におとすとされている。

この災いから逃れるためには、三尸の虫が天に登れないように、この夜は集落の人達が集まって本尊である青面金剛(しょうめんこんごう)を祀り、 経を唱えたり飲食したりなどして翌朝の1番鶏が鳴くまで寝ずに語り明かす。これを庚申待といった。

庚申待の儀式は、平安時代の貴族社会で始まり、鎌倉時代の武家社会を経て、次第に一般民衆の間に浸透した。江戸時代には全国規模で広まり各地に庚申講が結成され、それにつれて庚申塔が造立された。庚申塔は道祖神とも習合して、集落の境や田畑を見下ろす高台などに、五穀豊穣、無病息災、悪疫退散、子孫繁栄などを願って 祀られたと考えられる。
庚申信仰も大正時代に入って急速に衰えた。これには明治元年の神仏混淆禁止令によることや、人々の生活様式が大きく変わったことが影響していると考えられる。
盛んだった庚申信仰も時代を経るにつれて、次第に忘れられていき、都市開発や宅地造成に伴って場所を移動させられたり、行方不明になった庚申塔もある。また、親睦会という形で人々の集まりが続いている地域もある。
三尸(さんし)とは 上尸(頭部に棲んで毛髪を白くし、視力を減じる)、 中尸(腹部にひそんで五臓を破損する)、下尸(脚部に住しその精力を奪って生命を害する)
 
◇庚申塔の形態
庚申塔の形態は、角柱(かくちゅう)(墓石形)のものが最も多く、次いで駒形、舟形等となっています。庚申塔の中央に彫られる主尊は、ほとんどが青面金剛で、他には地蔵菩薩や特定の尊像を彫らずに文字だけのものも若干みられます。
一般的な庚申塔の形は、邪鬼を踏みづける青面金剛が中央に立ち、青面金剛の神使である三猿は、見ざる、聞かざる、言わざるという謹慎の態度を示すと言われます。日待・月待信仰を意味する日月や、にわとりなども彫られます。
 *出典元:稲城市(庚申塔内容説明)より引用
◇彫り物について
◇彫り物のいわれ
★三猿
見ざる、聞かざる、言わざる。三匹のものが多いが、それ以外のものもある。
猿との関係は諸説あり。
・庚申の「申(さる)」から
・庶民に身近な山王信仰との習合で、その使いである猿も取り入れられた、とするもの
・三猿を庚申に結び付け理由は、三猿を三尸(さんし)になぞらえて眼や、耳や、口をふさいで、悪事を天帝に告げさせぬ意からであると云われる。庚申塔に三猿が現れるのは江戸期の承応人年間(1652~1655)と伝われる。

★鶏
暁を告げ、時刻を知らせる動物として親しまれ、夜を徹して行われた信仰との関係からとされる。また、「申」の翌日は「酉」からともいう。庚申待ちの不望んだ希望の鶏である。

★邪鬼
災いを調伏する青面金剛のシンボルとして両足の下に一匹か二匹踏みつけられている。

★日輪・月輪
月が陰、日が陽である。これが平安貴族の間で流行した月待ち、日待ちなどの習俗と混交して、次第に庚申待ちという念仏講的色彩の濃いものになり、月輪・日輪として彫られたと考えられる。

★ショケラ
ショケラは、精螻蛄の字があてられ、青面金剛が左手で頭髪をつかんで下げている半裸女人像の姿で現わされている。ショケラの語源は、「しゃく虫」 から「しゃけら」に変化したものであり、三尸虫(商羯羅天)のことである。 青面金剛が、三尸虫を征伐する姿に変化していったと考えられている。
◇都筑区に現存する庚申塔
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<参考文献・出典元資料>
・港北の遺跡をたずねて ~案内は石仏さん 発行:横浜市港北区役所
・精選版 日本国語大辞典「三戸(さんし)」
 ・稲城市(庚申塔内容説明)より引用
 ・さぬき市長尾の庚申塔
 ・鎌倉の庚申塔(鎌倉教育委員会発行「鎌倉市文化財資料第8集」昭和48年発行)
 ・横浜市教育委員会(横浜市文化財調査報告書第17輯の2)
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