「こんなところに ナニコレ2!」

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6.木曽御岳教

名称 木曽御岳教(佐江戸杉山神社)
種類 石碑
設置住所 横浜市都筑区佐江戸2032
移転経緯 不明
建造者 佐江戸木曽御嶽教講中
建造年 1877(明治9)年
建造の狙い 木曽御嶽山信仰の講中で、実際に登拝出来ない者が現地まで行かなくてもこの石碑に参拝する事で、登拝と同じご利益が授かると云われていた。
由来 山岳信仰の一つ木曽御岳講

木曽の御嶽山は、山麓周辺に生活していた道者と呼ばれる重潔斎を行った宗教者にのみ、その登拝が許されていたが、1785(天明5)年に尾張の覚明行者により黒沢からの登山口が、1792(寛永4)年には武蔵の普寛行者により、王滝からの登山口が民衆にひらかれ、軽潔斎で登拝できる山となった。その後各地で御嶽講が結成され、御嶽信仰が広まっていった。

佐江戸には、杉山神社境内に「御岳三柱大神」と刻まれた碑がある。この石碑は1877(明治9)年に建立されたもので、杉原寛円によって由来が記されている。台石には先達2名、行者8名、講元2名、世話人2名などが記されている。

碑文によれば、明治初年、佐江戸では頻繁に火災が起こり、また疫病が蔓延した。そこで、村人が話し合い、木曽の御岳山に登拝したところ村が平穏になったという。

なお、御嶽三柱とは、国常立尊(くにとこたつのみこと)、大国主命(おおくにぬしのみこと)、少名彦命(おさなひこのみこと)の三神をいう。

また、佐江戸の金子家(屋号サカウエ)の裏山にも「御岳三柱大神」と刻まれた碑がある。この御嶽社には近在からも信者が集まり、江戸末期ころは、上麻生線に続く参道があった。大正末期まで東京虎ノ門より宗教者が3人来て、お灯明、お神酒を捧げ祈祷が行われたという。また、講の人は毎月9日に順番に宿に集まり、お焚き上げをし
て村内の平穏と家々の安泰を祈ったという。
(山岳信仰 木曽御岳教ホームページより)

左碑 参明藤開山      右碑 御嶽三柱大神

7.関東大震災復興の碑

名称 関東大震災復興の碑
種類 石碑
設置住所 横浜市都筑区佐江戸町2020 杉山神社
移転経緯
建造者 鶴城小櫃守衛撰
矗堂長崎栄敬書
石殷(段) 請負人 和田文蔵
獅子     同  亀石作太郎
石工     同  磯清作
建造年 1926年(大正15)12月
建造の狙い ・大正十二年九月一日関東では大地震があり、神奈川県は特に悲惨を極め、佐江戸では杉山神社が大破した。
・里民は復興するために委員を選び協力して資財を募集した。
・先ず、本殿を修復し、次いで鳥居や狛犬などの付属物を取り付けた。
・大正15年3月に起工し、12月に竣工した。工費は2,900円余りである。
由来 佐江戸杉山神社に関東大震災に関する復興の碑があります。都筑区では関東大震災に関する碑はここが唯一だと思われます。関東大震災によって杉山神社が崩壊してしまったため、資金を出して復興したことが書かれています。無量寺の入り口横の杉山神社の鳥居の下にこの碑は建っています。
杉山神社のある佐江戸は震災当時は都筑郡都田村(つだむら)大字佐江戸でした。
都筑郡は被害が大きい地域ではありませんでしたが、都田村はそれでも都筑郡内では最多の7名の死者が出ました。

8.地蔵の渡し

名称 地蔵の渡し(鶴見川・精進橋)
種類 地蔵菩薩
設置住所 横浜市都筑区川和町1460  瑞雲寺
横浜市都筑区川和町1681  天宗寺
移転経緯 毎年のように起こる洪水のたびに被害を受け倒されるため、近くの瑞雲寺と天宗寺にそれぞれ1体づつ遷置された
建造者 不明
建造年 不明天宗寺の地蔵堂は扉が施錠され堂内に入れず、また瑞雲寺の地蔵堂は非常に狭く、仏像の背後を覗けなく、建造年等が読み取れない。
建造の狙い 不明
由来 精進橋は、鎌倉道中ノ道の鶴見川にかかる橋で、その橋は、毎年のように起こる洪水のたびに流されていた。そのため、精進橋の少し下流に、青砥と対岸の川和を結ぶ「地蔵の渡し」があり、そのそばに、渡しの安全を祈願する2体の地蔵さまが鎮座していた。洪水で流される橋と同じように、地蔵さまも洪水のたびに祠が流されるため、近くにある瑞雲寺と天宗寺に1体づづ遷置されたと言われている。 地蔵様の名は「地蔵の渡し」、別名「流れ地蔵」とも呼ばれていた。

現在は、地下鉄川和町駅のすぐ前にある瑞雲寺墓地の片隅に座像の地蔵様の祠がり、駅から北へ500mほど行った畑の脇にある天宗寺墓地入口に立像の地蔵様の祠がある。

地蔵の渡しの少し上流には、大山詣での代表者が,出発前に鶴見川の水で身を清め、帰ってきたあと大山の水を川に流したという「精進場」があった。その名にちなんで、「精進橋」、地蔵堂の前の渡しを「地蔵の渡し」と呼ばれるようになったと伝えられている。
再開発進む地下鉄グリーンライン川和町駅南側。
手前の橋 北八朔橋 奥 精進橋と地下鉄鉄橋。両橋とも、地下鉄開通に伴い木造橋から鉄筋鉄骨橋に改造された。

精進橋から鶴見川下流方向を望む。
前方左側の高架は地下鉄グリーンライン車両基地。この橋のすぐ下流に渡しの地蔵が鎮座していた。
天宗寺に遷置の「地蔵の渡し」にあった「流れ地蔵」 瑞雲寺に遷置の「地蔵の渡し」にあった「流れ地蔵」

9.句碑(天宗寺)

名称 句碑(天宗寺)
種類 石造遺物(句碑)
設置住所 横浜市都筑区川和町1694番地
建造者 不明
建造年 句碑の建造年は不明  
天宗寺(浄土宗)は1539天文8年創建
建造の狙い 不明
由来 都筑区川和町にある天宗寺の境内に「松尾芭蕉の句碑」がある。
句碑は本堂に向かう階段を上ったところの右隣にあるが、木々の緑に溶け込んでおり、意識しないと見落としてしまいそうだ。

芭蕉の句は、「うき我を さびしがらせよ かんこ鳥」。元禄4(1691)年4月22日、芭蕉48歳の句で、出典は『嵯峨日記』である。意味は、「閑古鳥よ、その寂しい鳴き声で世をつらく思う孤独な私を 寂しがらせてくれ、その寂しさの中に浸りたいのだ。」

「かんこ鳥」は「閑古鳥」と書き、「郭公(かっこう)」の古い呼び名である。季語は「閑古鳥」で、季節は夏。「郭公(かっこう)」は、カッコウ科の鳥で全長約35cm。ユーラシア大陸の北の広い地域で繁殖し,日本には渡り鳥として5月頃渡来し、山深いところで「かっこー,かっこー」と鳴く。
 
松尾芭蕉が2年前に、俳人向井去来の京都嵯峨野の別荘「落柿舎」で詠んだ俳句は、「うき我を さびしがらせよ 秋の寺」であった。2年後「秋の寺」を「かんこ鳥」と改作したと伝わっている。2年後に更に推敲するとは、芭蕉の偉大さを天宗寺で感じることが出来る。
参考
「碑はつぶやくー横浜の文学碑―」(横浜市教育委員会文化財課、平成4年3月31日発行)「市民グラフ ヨコハマ No.116 横浜・歌碑と句碑のある風景」
(横浜市市民局広報相談部広報課、平成13年発行)
「横浜の句碑 (古往今来)」 (中島 邦秋 著)
「松尾芭蕉の句碑 天宗寺

10.稲荷大明神他(川和町)

名称 稲荷大明神他(川和町)
種類 石神
設置住所 横浜市都筑区川和町1607
建造者 不明
建造年 双体道祖神・・・1798(寛政十)年  戌午三月吉日  銘文「想氏子」
地蔵菩薩・・・1806(文化三)年 丙寅四月吉日  右脇に「平本權右ヱ門母」
地蔵庚申塔・・・1719(享保四)年 巳亥八月  銘文「奉造立地蔵菩薩庚申供養」
由来 元々あったものなのか移転したものなのかは不明。
稲荷大明神・双体道祖神・地蔵菩薩・庚申塔が近くにまとめられている。
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