「こんなところに ナニコレ2!」
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名称 |
観音山の観音 |
種類 |
観世音菩薩
丸彫坐像 |
設置住所 |
横浜市都筑区折本町 観音山(観音堂) |
移転経緯 |
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建造者 |
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建造年 |
年代不明 |
建造の狙い |
先祖の供養 |
由来 |
徳川家康が駿府にいた頃から家康を助けた一人に松下常慶という人がいた。この人の後が代々織本(現在の折本町)の地頭であった。観音山は代々地頭の墓所で、急な坂道を登ると、竹林の中に観音堂がある。
戸倉英太郎氏の「都筑の丘に拾ふ」によると、ここは近世、折本村の領主だった旗本・松下氏の墓所。今は真照寺の持ちとなっている。この観音像の下に松下重綱と直綱が葬られている。そしてこの墓域を整備したのは重綱から7代後の当主だった保綱としている。保綱は養子だったが、駿府と京都の町奉行を歴任した。時代は安永(1772~)の頃。
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名称 |
早苗地蔵 |
種類 |
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設置住所 |
横浜市都筑区折本町堂ヶ坂 |
移転経緯 |
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建造者 |
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建造年 |
1662(寛文2)年 |
建造の狙い |
かつて稲作地帯だった折本町で用水路建設に携わった父娘を讃えるため |
由来 |
1530年頃、干ばつに見舞われ飢饉におちいることも多かったため、役人が用水路の建設を考えていた。
しかし、当時としては途方もない計画。これに賛同しともに作業を始めたのが、地蔵のモデルとなった了信という僧とその娘、つが。
京都から旅して折本町に住み着いていた父娘だった。苦難の道のりの末、用水路は1539年に完成するが、了信とつがは作業の最中、土砂崩れにより亡くなってしまった(諸説有り)。村人たちは感謝の気持ちを忘れることなく、1662年に了信の地蔵、1682年にはつがの地蔵をまつった。
以後、豊作を願って田に植える若い苗をお供えしたことから「早苗地蔵」と呼ばれるようになった。 |
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名称 |
霊泉の滝(老馬鍛冶山不動尊) |
種類 |
不動明王 |
設置住所 |
横浜市都筑区中川3丁目14−6 老馬鍛冶山不動尊 |
移転経緯 |
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建造者 |
老馬鍛冶山不動尊(ろうばかじやまふどうそん) |
建造年 |
1760年ごろ(明和) |
建造の狙い |
伝承によると、江戸末期越後の国高田郡の座不動尊から修行に出された諦念法師が、ここまで来ると夕暮れとなり、近くの大久保家の世話になった。これが縁となって大久保家の婿養子になり、持参の不動明王像を檀那寺に預けた気を掘って荒行に励んだが、預けた不動明王像が行方不明になったため、意を決して越後におもむき不動明王を勧誘し堂宇を建立したという。
本尊は、天明6年(1786)に作で矜咤羅(こんが)、制咤迦(せいたか)の二童子を左右に侍らせている。
また、小滝さん湧水口の不動明王石仏には明和六年(1769)の銘があり、諦念法師の作と伝えられている。なお、ここには雨乞いの行事があり、お神酒を供えて雨乞いをし。雨が降ったらお礼のお神酒を供える。このほか滝壺を掃除したり、石仏尊に水をかけると雨となり、バケツでかけると大雨になるという言い伝えがある。
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由来 |
「霊泉の滝」は横浜の名水7選にあげられ、滝上方の祠の前には力石が置かれています。霊泉の滝周辺は江戸時代の旧大山街道(国道246号線の前進)の道筋で、江戸より第一日目の宿場町として栄えました。「荏田宿常夜燈」や「下宿庚申塔」(寛政5年・1793年のもの)が早瀬川にかかる鍛冶橋のそばに残されています。
霊泉の滝の看板には。
滝不動尊は、誠に霊験あらたかです。この地域に雨の降らない時雨乞いすると必ず降りました。昔から喘息・百日咳・風邪ひきなど、お水を戴きながらお願いすると必ず治癒しました。
お堂は崖の上にあり、湧水はこの崖から染み出て、石仏の下に差し込んである樋からチョロチョロと流れ出ています。
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名称 |
水神様(すいじんさま) |
種類 |
地神塔と水神宮 |
設置住所 |
横浜市都筑区中川5丁目36 |
移転経緯 |
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建造者 |
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建造年 |
この地神塔は、港北ニュータウン区画事業に伴い、中川町字宿の入より、移転して当地に安置された。
1989(平成元)年6月24日
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建造の狙い |
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由来 |
早渕川は周辺の田畑に水を潤していたが、矢崎の上流に土の堰を造るっていた。大雨が降ると堰は決壊し、毎年のように村人が造りなおしていた。その苦労を見かねた慈眼寺の住職が木材の堰を造るようにと、寺の山林の一部を譲ってくれた。堰は大正12年の関東大震災で壊れたが、翌13年にコンクリート製に改修された。この堰は大棚堰と言われ、大堰、小堰の二つがあった。昭和47年の護岸工事によって堰はなくなり現在のようにな形になった。堰の近くに水神様の祠が立っている。
(港北ニュータウンふるさと伝承記録集より引用)
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名称 |
地神塔 |
種類 |
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設置住所 |
横浜市都筑区中川牛久保38-18 |
移転経緯 |
港北NT造成工事に伴い、牛久保町1382番地から移設 |
建造者 |
小山田講中 |
建造年 |
元禄ごろから明治までが盛んであった |
由来 |
地神とは、稲の穂を持ってきた神とか、あるいは春の社日(春分・秋分の日に近いツチノエの日)に来て田畑に出て作物をつくり、秋には帰っていく作神と考えられている。そのため、農村地帯で信仰され部落単位で講が組織されたので、塔造立も単に講中となっているものが多い。 |
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名称 |
山田富士の守り神
(名称の出所:山田富士公園愛護会の案内書より。単なる愛称であろう) |
種類 |
観世音菩薩(子育て地蔵)(右側の石像は大日如来) |
設置住所 |
横浜市都筑区北山田1丁目4 |
移転経緯 |
いつ頃からこの地、場所にあるのか、他所から移転したのか等何れも不明。 |
建造者 |
不明
見事な浮き彫りに作られている、優れた石仏師によるものであろう。 |
建造年 |
1813(文化10酉)年5月吉日 |
建造の狙い |
不明 |
由来 |
長い錫杖を持った観世音菩薩。右手に鈴杖を持ち、左手に幼子を肩に抱き上げ、錫杖の端と衣の裾にもこどもが縋っているのが見える。 「山田富士の守り神」と呼ばれているこの石像は、いつ頃からこの場所にあるのか、柔和な顔の石像は、観世音菩薩(子育て地蔵)である。
詳細をしかるべき所(人)に尋ねて見たい。また、「山田富士の守り神」の名称は、地域の人達が親しみを込めて付けた愛称であろう。 |
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