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横浜市歴史博物館



横浜市歴史博物館を訪問しました横浜市歴史博物館地下鉄「センター北」から徒歩5分、中川中央1丁目にある横浜市歴史博物館(左)に行ってきた。夏休み中だったので、大人5名、中学生1名、小学生3名の賑やかな訪問になった。

博物館というと、まず展示室を思い浮かべるが、ここには利用できる施設が他にもたくさんある。博物館課の三浦さんは、展示室・スタディサロン・映像コーナー・歴史劇場・体験学習室・講堂・研修室・図書閲覧室などを回りながら、施設の概要を説明してくださった(右上)。その後、前沢課長も加わり、博物館全般に関する話がはずんだ。


横浜北部の唯一の文化施設

博物館の開館は1995年、ほぼ10年前である。横浜市は東京都に次ぐ人口ながら、文化施設は少ない。なかでも北部の文化施設は皆無だったが、やっと10年前に北部唯一の博物館が完成した。都筑区が「横浜のチベット」と呼ばれた頃から住んでいる私には、博物館開館は感慨深い。

多くの地方都市に歴史博物館があるが、不思議なことに、横浜市には10年前まで通史の博物館がなかった。開港以前の有名人物もシンボリックな人物もいないから無理もない。しかし、現在横浜市と呼ばれる地域には、旧石器時代から人間は生活していたのである。特に江戸時代の横浜は、江戸を陰で支える普通の人が暮らしていた。農村であり漁村であり、宿場でもあった。そんなこともあり、この博物館は、庶民の生活にも焦点をあてている。




入館者の内訳は、横浜市民の65歳以上が30%、小学生が30%、その他が40%となっている。「その他」には、市民ではない65歳以上も含まれるから、シニアが占める割合は多い。ちなみに、横浜市民の65歳以上は無料。

横浜市歴史博物館の内部の写真土日は小中高生を無料にしているが、それでも中高生の利用は非常に少ない。どの博物館にも見られる傾向なので、文部科学省は「中高生が関心をもつにはどうすればいいか」を研究している。高校で日本史が必修でなくなったことも、影響しているかもしれない。

横浜の小学校は350あるが、そのうち90%の小学6年生が、4月から6月にかけて団体で見学に来る。この時期は、毎日のように小学生の入場者で賑わうという。

訪問した日も、スタディサロンで熱心に映像を見る小学生の姿があった(左上)。スタディサロンは円形展示室の中央にあり、疑問があればすぐ調べることができる。


これだけは見て欲しい!(常設展示室)

北の端に、通史の博物館が作られたのは、大塚・歳勝土遺跡の存在が大きい。ニュータウン開発中に268もの遺跡が見つかったが、なかでも弥生時代の環濠集落・大塚遺跡と方形周溝墓・歳勝土遺跡は、国史跡に指定されているほど貴重だ。残念ながら、大塚遺跡は3分の1しか保存されなかったが、かわりに大塚・歳勝土遺跡公園が整備され、隣接して民家園や歴史博物館も作られた。

常設展示室は、原始T、原始U、古代、中世、近世、近現代と分かれているが、従来の展示にありがちな時代順の部屋ではなく、全体が円形になっていて、どの時代からも見学できる。オープン展示で、ほとんどの展示物はガラスケースに入っていないので、土器の肌触りまで感じることができる。

「すべて貴重だと思いますが、これだけは見て欲しいという目玉はありますか」と前沢課長にうかがった。「そうですね、原始Tでは、隆線文(りゅうせんもん)土器。都筑区の花見山遺跡で発掘された最も古い縄文土器のひとつです」。陸線文土器はおよそ12,000年前のもので、上野の国立博物館にも貸し出しをしている。

「古代では、青葉区の朝光寺原1号墳から見つかった鉄の鎧兜と鉄剣です。有力者が葬られていたと考えられます」。錆びてはいるが、鎧兜のセットと数本の鉄剣が、見事に残っている。

「近世では、まねき看板。江戸時代の大山街道には、大山詣りをする旅人の定宿がありました。そのひとつ荏田宿の柏屋には、看板がたくさん残っていました」。まねき看板というネーミングがおもしろい。

「近現代のマジックビジョンも面白いです。明治36年の中川村の暮らしが、模型と映像でわかります。村是(そんぜ)−村のきまり−を基にして作ってあります」。囲炉裏を囲んで談笑する村人、鎮守の森で遊ぶ子ども達の100年前が伝わってくる。村是には、天然氷や素麺作りの記述もある。

前沢課長お奨めの展示は下の写真でごらんいただきたい。常設展示室は、フラッシュ禁止なので、下の4枚は、いずれも「常設展示室案内」の冊子をコピーさせてもらった。

縄文時代の土器の写真です 古墳時代の鎧・冑の写真です。 江戸時代のまねき看板の写真です。 明治時代の中川村の映像
縄文時代の隆線文土器(花見山遺跡)土器の口のまわりに細い盛り上がった線(隆線)があることからこの名がついた 古墳時代の鉄製よろい・かぶと(朝光寺原1号墳)。ほかに馬具や鉄剣も発掘され、有力者が葬られたことがわかる。 江戸時代のまねき看板(大山街道の荏田宿)。旅籠屋にかけられた旅人向けの看板。 明治時代の中川村のくらしを模型と映像で紹介している。これは囲炉裏を囲むシーン。マジックビジョンという映像展示の手法を使っている。


見どころは盛りだくさん

1960年代の暮らしの写真企画展示室では、1年に6回の企画展を開いている。「計画はいつごろ立てますか」の質問に「3年ぐらい前です。準備にかかりますから」という答えが返ってきた。リポーター全員が、準備期間の長さに感心してしまった。訪れた時は、「ちょっと昔を探してみよう」(左)という展示(7月10日〜9月10日)で、1960年代のくらしを再現していた。次の企画展は10月6日から「横浜の礎・吉田新田いまむかし」。

歴史劇場
では、横浜2万年の歴史を15分間で再現している。平日は7回、土日祝日は10回、上映される。


映像コーナーの写真映像コーナー(左)は、横浜18区すべての文化財や行事を映像化している。個室なので、自分が見たいときに、興味のある分野だけを見ることが出来る。

講堂(184席)では、講演会が開かれる。特に1月末に開かれる開館○周年記念講演は大人気で、中に入れない場合も多い。研修室(56席)で開かれる歴史講座も人気があり、「古文書を読む会」には定員の倍の応募がある。これ以外に史跡を巡る「ふるさと横浜探険」ツアーもある。催し物のお知らせは、すべて催し物案内に載っている。

図書閲覧室にも、ぜひ足を踏み入れて欲しい。貸し出しはしていないが、5万点もの蔵書がある。研究者向けの史料ばかりでなく、子どもでも読める絵本やマンガもあって楽しめそうだ。本の内容は、蔵書検索で事前に調べることも出来る。


遺跡公園ボランティア

大塚遺跡の写真です大塚遺跡(左)は、環濠集落が完全な形で発掘されたことで、全国的に名高い。今は、集落の上部にある歳勝土遺跡と、環濠の3分の1が残っているにすぎないが、竪穴住居も再現され、史跡公園として見ごたえがある。

希望者には、ボランティアガイドが説明してくれる。ガイドの任期は2年だが、毎期60名が登録している。現在、第5期のボランティアを募集中だが、毎回大勢の応募があるそうだ。ガイドは60代の男性が多いが、主婦、大学生、先生と幅広い。

ガイド数人にインタビューしてみた。どの方も口をそろえて「いろいろな方とふれ合えて、やりがいがあります」。「質問が出ると、嬉しいんですよ。小学生は、トイレはどこにあったかなど面白いことを聞きます。史学科の学生や、全国の遺跡めぐりをしている人とは、専門的な会話を交わすこともありますが、これはこれで勉強になるのです」と、実に楽しそうだった。


竪穴住居に泊まった

この博物館は、体験学習にも力を入れている。火起こし、土器作り、土偶作り、紙すき、草履編みなどを通して、その時代を少しでも感じ取って欲しいという試みだ。私が子どもの頃の博物館は、ガラス越しに展示品を眺めるだけだった。今の子ども達は、なんと恵まれていることだろう。

9月2日から3日にかけて、「竪穴住居に泊まろう」という行事があった。参加者は、横浜市内の8家族25人。途中まで見学させてもらったが、全員が、縄文人・弥生人になりきろうと、張り切っていた。広い遺跡公園で、火起こし競争をしたり、縄文土器でスープを煮たり、バーベキューをしたり。マッチやチャッカマンがない時代の火起こしの大変さを、お父さんお母さんも実感したに違いない。炎を見ながらの食事もおいしかったろう。

私は竪穴住居に泊まることは出来なかったが、8家族は、2家族に分かれて4つの竪穴住居に泊まった。竪穴住居の寝心地はどうだったのだろうか。

下の4枚の写真を見て、「来年は参加したい」と思う人が多くなれば、レポーターとしては大変嬉しい。

貫頭衣(弥生時代の衣装)の写真 まいぎり式火起こし器の写真です 縄文式土器でスープを煮ているところ 竪穴式住居の内部の写真
説明を受ける8家族25人の参加者。説明の学芸員は、貫頭衣(弥生時代の衣裳)を着ている。 まいぎり式火起こし器で火種を作っている5年生のK君。コツと力がいる作業だ。 縄文土器でスープを煮ている。縄文土器の用途はさまざまだが、煮炊きする鍋としても使われた。 竪穴式住居の内部。2家族が一夜を過ごすために、この日だけは、ビニールシートとゴザが敷いてあった。

(2006年8月〜9月 訪問 HARUKO記)

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