都筑区折本町470にある亀屋万年堂製菓(左)の横浜工場を、3人で訪問してきた。工場の場所は、第3京浜の港北インターに近い。毎日2回、出来たての菓子をトラックで配送しているので、またとない立地である。 建物の中は、甘〜い匂いが立ちこめていた。さすが製菓工場だ。「イチゴだったり、チョコレートだったり、日によって匂いが微妙に違うんです」と、笑いながら話す生産本部次長の中島さん。 中島さんは、取材の時も工場見学の時も、丁寧かつ的確な説明で対応してくださった。
亀屋万年堂は、昭和13(1938)年に引地末治氏(左胸像)が、東京の自由が丘に小さな菓子屋を創業したことに始まる。「店の名前に由来はありますか」と聞いてみた。 「創業者が浅草の菓子屋・亀屋で修業して、暖簾分けをしてもらったんです。亀屋だけでは寂しいので”亀は万年”の万年をつけたと聞いています」。 創業して数年後に、太平洋戦争が始まった。菓子に必要な砂糖や小麦粉や小豆が入らなくなり、やむなく休業状態に。再開したのは、戦後1年してからである。 その後「帰省時の東京土産は亀屋万年堂」と刷り込まれるほどに発展していった。 本社工場が手狭になったこともあり、ここ都筑に工場を建てた。昭和44(1969)年のことだ。それ以来、大部分の菓子を横浜工場で製造している。ここから、直営の約70店舗と大手スーパーの約100店舗に毎日納入している。 昭和54年には株式会社になった。3代目になる今の社長は、國松彰氏。聞いたことがある名前だが、それもそのはず、ジャイアンツV9時代に名選手として活躍した。引地氏の長女が、國松氏と結婚したことからのご縁だ。つまり、3代目社長は創業者の婿である。
創業以来、和菓子を作っていた亀屋万年堂に、昭和38(1963)年、ナボナが登場した。どら焼きをイメージして、あずき餡のかわりにクリームをはさんだ菓子がナボナである。今でこそ似たような菓子はたくさんあるが、50年前に、和に洋を取り入れた焼き菓子を作った先見の明に驚いてしまう。 ナボナという名は、ローマのナボーナ広場にちなんでつけられた。この広場で毎年、菓子祭りが開かれている。屋台がたくさん出て、子ども達も楽しみにしている祭りだそうだ。 王貞治選手の「ナボナは お菓子のホームラン王です!」のTVCMは、首都圏に住む中高年には馴染みがある。王選手は、同じ巨人軍の國松氏から頼まれて、CM出演を引き受けた。CMが流れたのは昭和42(1967)年だが、今でもたくさんの人が覚えているほど、反響も効果も大きかった。 関東地方限定のCMなので、他の地域の方は知らないと思う。「もし阪神の地元で、巨人の王さんのCMを流しても、絶対に買ってくれなかったと思います」と中島さんは笑いながら話す。 1963年に登場したナボナが、いまなお亀屋万年堂の主力商品で、年商の30〜35%を占めている。好みが変化していくなかで、50年も続いている菓子は、日本全国でもそう多くはない。そして自由が丘という菓子屋の激戦区にあって、今なお重鎮的な存在なのだ。 ナボナはチーズクリーム・パインクリーム・コーヒークリームの3つの定番以外に、季節限定品を作っている。今年の春限定ものは、イチゴクリームと抹茶クリーム(左)。 季節限定ものは、毎年決まっているわけではなく、開発室のメンバーがより美味しい菓子を作るために、研究を重ねている。もちろん、ナボナに限ったことではなく、森の詩・山の手乳菓など他の菓子についても同様だ。 「試食することが多いので、カロリー過多になってしまいます。昼食はカロリーを減らしているんです」と中島さん。毎日となるとつらいかもしれないが、甘いものが好きな私は少し羨ましい。 ベストセラーのナボナを中心とした亀屋万年堂の暖簾が守られているのは、こうした地道な努力があってこそではないだろうか。
玄関で出迎えてくれた時から、中島さんは白ずくめ(左)だった。病院の先生の白衣のように、ちょっと羽織るというのではなく、頭部から足下まで、すっぽり覆われていた。
ナボナなど日持ちがする商品以外に、団子・桜餅・柏餅など生菓子も扱っている。これら生菓子は、早朝4時から作り始め7時半ころに出荷する。生菓子が出来あがるまでには、きな粉をまぶすなど手を使う作業もある。ガラス越しに見ている限り、町の和菓子屋さんに似ている。
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