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田中淳一さん昭和大学横浜市北部病院(以下、北部病院と記す)の田中淳一教授(59歳−左−)を訪問してきた。北部病院は、区民ばかりか、全国の患者が熱い視線を向けている最先端の病院である。

なかでも大腸がんの権威、工藤先生と田中先生のコンビは、マスコミにもたびたび登場している。

田中先生に取材をお願いしたところ、気持ちよくOKしてくださった。でも超多忙な先生と私の都合があう日がなく、訪問が実現するまでに2ヶ月近くかかった。

とはいえ、取材の日は、ふだんは目にすることがない検査室や手術室の案内からはじまり、教授室でのインタビューまで、実に4時間もの時間を割いてくださった。

そして、当初の予定にはなかった翌朝の手術を、見学させてもらえることにもなった。


外科はすべて任せる 


北部病院看板北部病院(左)は、呼吸器センター、消化器センター、循環器センターなど、センター方式をとっている。従来の病院は、内科で見てもらい、外科手術が必要の場合は、科を移動しなければならなかった。

センター方式は、内科医と外科医が一緒に治療にあたるので、連携がスムーズだ。北部病院は開院の時からこの方式を取り入れていて、成果を上げている。


消化器センター田中先生が北部病院の消化器センター(左)に赴任したのは、2001年。まる10年が過ぎた。

「大腸の内視鏡手術を、先端医療でやるから一緒にやらないか。僕が内科で内視鏡検査をするから、外科はすべて君に任せる。君ほど腹腔鏡手術が上手な人はいない」と、工藤先生から誘いがあった。2000年に赴任していた工藤先生は、秋田高校の先輩で、旧知の仲でもあったし、内科と外科の連携システムにも魅力を感じた。


全国で2番目 


内視鏡写真北部病院では、1年間に、大腸がん患者約350人の手術を行っている。計算上では、毎日手術をしていることになる。この数は、全国の病院の中で5番目に多い。内視鏡治療に限ると、2番目に多い。
左写真は、大腸の内視鏡検査用光学装置。

「内視鏡治療の数を全国一にしたいと、ここの院長が言っているんですよ」と先生。

「蓮舫さんじゃないですが、なぜ1位じゃないといけないんですか。2位でもスゴイと思うのですが」と突っ込み。

「世界の医学界では、High Volume Center でやる手術は、安全で成績が良い、予後の状態もいい、が常識なんです。症例数が多いのは、その病院に命を預けようとする患者が多い、病院全体の信頼になります」と、田中先生から明瞭な答えが返ってきた。

ちなみに、先生は、月・水・木・金が手術日。大腸の腹腔鏡手術以外に、肝胆膵(肝臓・胆嚢・膵臓)の手術も担当している。工藤先生の「手術はすべて任せる」の言葉どおり、手術数は半端ではない。

大腸がんの手術の場合は、普通は2〜4時間、肝臓も一緒に切除する場合は、10時間もかかる。その間は立ちっぱなし。昼食を抜くこともある。

「手術は体調がよくないとできません。だから睡眠時間や食事は、いつも気をつけています。鉗子を使うので、指の怪我などにも気を使っていますよ」と先生。

診察中の田中さん火曜日は、週に1回の外来日。左写真は診察室の先生。午前中しか受け付けないが、1日で30人前後を診るので、予約時間通りにはいかない。訪問した日の外来患者は24人で、いつもより少なかったが、診察が終わったのは午後3時を過ぎていた。

沖縄・札幌・名古屋・出身地の秋田など、遠くからの患者も大勢いるとのこと。それを思うと、身近に名医がいる都筑区民は、ほんとうに恵まれている。

1週間のうち、手術日が4日、外来担当が1日。土日とて暇ではない。学会・セミナー・講演・地域医療(災害・インフルエンザ)との連携・地域の団体との懇話会など、スケジュールがいっぱいだ。

出勤は朝の7時半。帰るのは夜の9時半過ぎ。同じ区内にお住まいなので通勤時間は少ないが、かなりハードな生活だ。

「こんなに忙しくてイヤになりませんか」

「いやあ。元気になった患者さんの笑顔を見るだけで、忙しさなど吹っ飛んでしまいますよ。医学の向上に貢献している自負が、ぼくを支えています。もともと身体を動かすのが好きでしてね。診断より治療をしたいんです」と頼もしい。


腹腔鏡(ふくくうきょう)手術ってなに? 


田中さんの写真私は、内視鏡と腹腔鏡の違いすら、知らなかった。手術といえば、身体にメスを入れる開腹手術しか思い浮かばない。こんなに無知ではあまりにも失礼だと思い、事前に何冊かの本を読んでみた。

腹腔鏡手術がはじまったのは、そう古いことではない。1989年、アメリカのアトランタで開かれた外科学会で、事例が発表された。それ以来、急速に世界中に広まっていった。日本では1990年に、3人の先生方が腹腔鏡手術を成功させている。

田中先生は、腹腔鏡の草創期のころ、1988年から1991年にかけて、アメリカのクリーブランドクリニックに留学した。帰国後の1993年に、秋田大学で腹腔鏡手術を開始。それ以来、腹腔鏡の第一人者である。

腹腔鏡手術は、腹部に数か所の穴を開けて、そこからカメラや器具を入れて、画面のモニターを見ながら患部を切除する。出血した場合は、ガーゼも穴から入れる。左写真は、腹腔鏡手術をしている先生。モニター画面を見つめる目が真剣だ。

「開腹した場合は、実際の臓器を直接、目にすることができますね。でも腹腔鏡の場合はモニターでしか見えません。それでよく出来るもんですね。具体的なイメージが湧かないのですが・・」と、第一人者に向かって失礼な疑問をぶつけてしまった。

「明日、手術があるから見学しますか?見ればよく分かるでしょう。取材ということで許可をとりますから」と、思わぬ展開になった。

衣服を着替え、帽子とマスクをして手術室に入ったときは、すでに田中先生ともうひとりの先生や、大勢のスタッフがそろっていた。テレビドラマでしか見たことのない光景が、広がっていた。

アメリカやイスラエルの医者、他の病院からの見学者も数人いた。患者は腹部以外は完全に覆われているので、性別も年齢も病名すら分からない。「モニターを見て、どこの部位か分からないのは、この中では私だけだろうな」と、心細い思いで手術を見守った。

田中さんの写真 田中さんの写真 田中さんの写真
手術室。緑の上下は医学関係の 見学者が着る衣服。取材者は別の色。 ヘソの穴を利用する 。この方法で大腸がんの手術が出来るのは、日本に数人しかいない。 モニター画面を見ながら、手先を動かしている2人の先生。 


こんな場でも、田中先生は気配りを忘れない。「今日はね。単孔式といって、おへその穴を利用しています。へその部分に2.5センチの穴をあけるだけなので、傷跡も目立たないんです」と、私に向かって説明してくれる。

見学していた医者が「へその穴を使って大腸がんの手術が出来るのは、日本では数人しかいないんですよ」と、誇らしげに教えてくれる。「なるほど!神の手はこういうことなのか」と納得する。

手術の見学は、これが最初で最後のような気がする。患者の家族は部屋には入れないし、私は医者の卵でもないし、医療器具の研究者や業者でもない。レポーターをしていてよかったなと思う。

ちなみに、すべての手術を腹腔鏡で行っているわけではない。開腹に比べ負担が少ないので、年々増えてはいるが、がんが進んだ場合など、出来ない場合もある。北部病院の胃の手術の場合は、胃の全摘、局所切除を含め、76.3%が腹腔鏡による(2010年の業績報告)。


 東北大学ボート部医学科卒業


先生は還暦近い年齢にもかかわらず、病気知らず、疲れ知らずだという。手術の時は、何時間も立っている体力が必要だ。写真を見ておわかりのように、非常に若々しい。エネルギッシュに身軽に、動きまわっていらっしゃる。

「なにか運動でもなさっているのですか」

「今は忙しくて、たまにゴルフをするぐらいです。でも院内を駆けずり回っているので、運動量はすごいですよ。大学の時は、ボートばかりやってましたから、そのときに体力が出来たのかもしれません」

秋田高校に在学していた時に、身近な3人が手術をしたことから、東北大学の医学部に入学。当時の医学部長でボート部の部長が、後に総長になった石田名香雄先生。いつの間にか石田先生の研究室に連れていかれ、1週間後には、合宿に参加していだそうだ。

田中さんの写真医学部に入ったのに、まるでボート部に入ったような毎日でした。だから、経歴は、ボート部医学科卒業なんです」と、ボート部の話をすることが嬉しくてならない様子。

東北大のクルーは、1960年のローマオリンピックに出場しているので、自分たちもモントリオールオリンピックを目指した。それは叶わなかったものの、1977年、軽量級で日本代表になり、オランダ・アムステルダムでのワールドカップに出場。医学部最終学年の夏は、1ヶ月もヨーロッパに遠征していた。

先生はコックスだったので、上の写真では左端、下の写真では前列の真ん中に写っている。コックスは、ボート上では絶対的な存在で、エイトは、コックスの命令で動くそうだ。

「この遠征があったので、小児科と産婦人科の実習をしていないんです。レポートでなんとか勘弁してもらいましたけど」と、実習をしていないことすら、楽しそうに話す。今でもボート部とのつながりは深く、教授室の本棚にボート部関係の記念誌や名簿が揃っていた。


小学生のころ身体が弱かった私は、先生が学んだ医学部の附属病院で治療をしていた。そこは、権威のかたまりのように思えた。先生方はふんぞり返っているという印象しか残っていない。

それから数十年、お会いした田中先生は、大学病院の有名医であるにもかかわらす、尊大なところがひとつもなく、真摯に患者に寄り添っている。笑顔と真剣なまなざしが交差するお人柄に、魅了されてしまった。
「いつまでも、この病院にいてくださいね」とお願いして、長い取材を終えた。(2011年12月訪問 HARUKO記)

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