「都筑区水と緑の散策マップ」には、区内の緑道や寺社などをめぐる散策コースが載っています。

このマップの最後に、幕末から昭和初期に活躍した都筑にゆかりのある人物を紹介しています。

故人のご子孫や関係者を訪問して、思い出を語ってもらうことにしました。 


佐藤惣之助さん


今回のゆかりの”ひと”は佐藤惣之助。明治23(1890)年~昭和17(1942)年。51歳の若さで亡くなった。

5回目に取り上げた西條八十の2年前に生れているので、同世代である。50歳以下の人が西條八十を知らなかったように、佐藤惣之助は没年が西條八十より20年以上早いこともあって、なおさら「聞いたことがない」と言う人が多い。

でも「『六甲おろし』を作詞した人よ」と話すと、目を輝かせる。阪神タイガースの球団歌は、阪神ファンならずとも耳から離れない。今シーズンは、阪神が快進撃を続けているが、コロナ禍の観戦ということで、歌声が球場に響くことはない。終息すれば球場を揺るがすような大合唱が始まるに違いない。

写真は、都筑区(当時は港北区)の真照寺境内で、カメラが趣味だった18世住職の雲井孝さんが撮影した。惣之助ほどの有名人となると写真はたくさん出回っているが、地元の住職が、境内で撮影した貴重な1枚である。真照寺提供。


惣之助が大好きだった真照寺 


毎回、ご子孫やゆかりがあった方を探すことに苦労しているが、惣之助が生れ育った川崎に、今は親類は住んでいないようだ。「惣之助は最初の奥さんが亡くなった後に、萩原朔太郎の妹と再婚したのですが、子どもはいませんでした。養子に迎えた甥の沙羅夫さんは、以前はこちらにもいらっしゃいましたが、今は関西にお住まいなので、最近は連絡をとってないんです」と19世住職の雲井耀一さんは残念そうである。

いつものように秋山満さんの入念な下調べがあって、惣之助ゆかりの住職にインタビューをすることができた。別項で詳述するが、惣之助は折本町の真照寺を第2の故郷と呼ぶほど気に入っていて、初訪問以来22年間も通っていた。亡くなった翌々日にも訪ねる予定だった。

私たちの訪問は5月末。惣之助が初めて真照寺を訪れたのが大正9(1920)年5月。101年後の同じ5月の訪問だった。「惣之助が味わった空と青葉と土と空気だなあ~」。声に出すのは気障っぽいので、胸の内にしまった。

都筑区の北部はニュータウン開発で当時の風景はわずかしか残っていないが、南部の折本町はまだ「大なる田舎」である。

 
真照寺山門
 
インタビューに応じてくださった雲井耀一さん


たくさんの資料を準備してくださった19世住職の雲井耀一さんは、「惣之助が亡くなったのは私が2歳の時ですから、何も覚えていないんですよ。でも惣之助らを喜んで迎え入れた祖父の麟静(りんじょう)や父の孝(たかし)から、よく話には聞いています。惣之助のハガキや贈られた初版本数冊が残っているので、こうしてお話できるのです」と、歯切れ良く語ってくれた。

分かりやすい語り口は、耀一さんが長いこと教職に就いていたからかもしれない。霧が丘第2小学校の校長を最後に、平成8(1996)年から住職中心の生活になった。父親の18世住職孝さんも、都田中の副校長や中川中の校長をしていた。

ちなみに真宗大谷派の真照寺は室町末期の創建で、4世住職の時には徳川家光からご朱印状をもらったほどの名刹。屋根瓦に葵のご紋がある。

大なる田舎。光栄の川。自然の祭。 


「惣之助の詩」という石碑が境内にある。「詩碑があることで、文学散歩に訪れる人が多いんです。『六甲おろし』や『赤城の子守唄』を合唱するグループもいますよ」の説明にも納得がいく。

筆者も生い茂る大木やモクレンなどに惹かれ、境内をお邪魔したことがあり、この石碑は見ていた。でも「惣之助が来たことがあるのか~」程度の思いしかなかった。こうした石碑の中には、たいした縁がなくても碑が建っている場合が多いからだ。

今回、住職に詳しい話を聞くまでは、惣之助の文学活動に大きな影響を与えた寺ということを知らなかった。

碑の除幕は昭和39(1964)年5月。惣之助23回忌の時。

大なる田舎。光栄の川。自然の祭。麟静筆とあるから、17世住職の書だ。それにしても、詩にしては、いやに短いのである。

詩集 「満月の川」よりとあったので、実際の詩集<佐藤惣之助詩華集(アンソロジー) 詩の家編 平成3(1991)年発行>にあたってみた。

満月の川」は第3詩集で、この3行の詩のタイトルは「華麗なる川」。碑に刻まれた3つのフレーズは、長い長い詩の1行目だけだったのである。

上記の「佐藤惣之助詩華集」の中で、養子の佐藤沙羅夫さんは「第3詩集の『満月の川』の作品は、大正7~9(1918~1920)年の制作で、大正9年5月に折本村の真照寺を訪れ、忽ちにして大自然のとりこになって、庫裏の一室に篭ってランプの灯で感覚的な田園詩を次々と制作した」と書いている。

惣之助が世に知られているのは「赤城の子守唄」や「人生劇場」や「湖畔の宿」や「六甲おろし」といったヒット曲の作詞者としてだ。

でも沙羅夫さんは「彼は戯曲や小説や俳句も書いていましたが、もっとも重んじていたのは詩です。17冊の詩集と5冊の歌謡詩集を出版しています。関東大震災後の新居も『詩之家』と名づけ、詩人や文学者が集う場にもなっていたんです」と、解説している。

下の写真は真照寺周辺。惣之助が愛した景色や空気がそのままだと信じたい。大詩人がとりこになった自然が残っていることが、区民として誇らしい。

 
真照寺の白壁が長く続いている

 
竹林  惣之助は「タケノコご飯」が大好きだった

 
近所を流れる大熊川

 
寺の裏には畑が広がっている  小松菜の収穫期だった

麟静住職との出会い 


惣之助は、川崎の旧本陣だった裕福な商家に生れた。裕福とはいえ丁稚に出されるのが常だったが、丁稚時代に投稿した句が佐藤紅緑(サトウハチローと佐藤愛子の父)に認められ、文学の道に進むようになった。この縁で、惣之助の葬儀委員長は、サトウハチローが務めたという。

さて、惣之助がなぜこの地を20年以上も訪れ、長い時には1か月も滞在したのか。端的にいうと、17世麟静住職との出会いがあったればこそだ。

17世麟静住職は、浅草の寺の次男で、東京の高輪中学を卒業後に養子に入った。浅草で育ち芸術に造詣が深かった若者には、寂しい村だったに違いない。

でも、彼は折本村にたくさんの文化と楽しみをもたらした。絵や文をたしなみ、楽器も弾いた。ハモニカバンドを作ったり、都田桜月会という劇団まで作った。演目は「父帰る」「国定忠治」「ベニスの商人」など、本格的なものだった。芝居用の幕や幟も東京から取り寄せたという。写真は桜月会の劇の一場面(以下モノクロの写真はすべて真照寺提供)。

18世住職の孝さんも、NHKの放送劇団にも入っていたほど演劇や音楽に優れていた。

惣之助と麟静さんとの出会いを集合写真で説明しよう。もちろん初訪問時の写真ではない。


下段右から3番目の見るからに品格を感じる方が、麟静住職である。

住職の弟の遠山教円(2段目の右から2番目)さんは、上野の美術学校出の画家。美術学校時代の友人の画家鈴木保徳麟静の左上)さん、その友人の惣之助(保徳の左)、ほかに橋本という友人4人で、真照寺に遊びに行ったのが大正9(1920)年の5月だった。惣之助は「空気がおいしい」と発したという。

初めて訪れた折本や真照寺をよほど気に入ったのだろう。寺に1泊していったんは帰京したが、数日後には他の友人も誘って、再訪している。

「あわただしく過ぎ行く春の惜しまれてと、云う気がしたのであったであろう。予も同様であった。この時には十年の知己の如く、肝胆相照し大いにうち融けて談笑したことであった」と、麟静さんは追悼の文を寄せている。

「殊に佐藤君の処女作『正義の兜』を贈られたことに依って、初めて同君の文才の非凡なるを知り、深く敬意を払った」と続く。

左が初めての詩集『正義の兜』の扉。大正9年5月20日とある。この日付があることで、初訪問はこの数日前だったことが分かる。

真照時は関東大震災でも第二次世界大戦でも被害は受けなかったし、今のようにすぐモノを捨てる時代ではなかったので、こうした貴重な資料がきれいに残っている。外国からの絵葉書など葉書は24枚。

真照寺のみなさんが、麟静さんと惣之助の交流を、とても大事にしているからだろう。

初めて訪れたのも5月だったが、その後に結成した折本会も、5月の第2日曜に開かれた。下の写真の白いシャツ姿の中折れ帽を被っているのが惣之助。

このように、天気の良い日には、裏山の傾斜地や雑木林にゴザを敷いて談話を楽しんだ。惣之助の明るくユーモラスな人柄はみんなに親しまれた。

「友同志談話をしている間も、いつか佐藤君の魅力ある言葉に一同が引きつられて行く、殊に”百姓は飛べない鳥である”とか”眼をつぶると自然の裏面が見える”とか”自由は歩くことである”といふ警句が 後から後から出てくるので、一同は深く考えさせられ、感じさせられるのであった」と、追悼文に書いている。


100年も前の折本でこんな素晴らしい談話の会が開かれていたことに驚く。そして羨ましい。

 惣之助の急逝

22年間も続いた交流は突然終わった。

惣之助の最後の葉書をご覧いただきたい。昭和17(1942)年5月16日と消印がある速達。「5月17日に折本会をやりたいからよろしく」という内容だ。住職は、ふき掃除などをして17日の会合を楽しみにしていた。なんとなんと!16日に惣之助訃報の電報を受け取った。「サトウシス アスヤメ コクベツ18ヒ ヤス」。ヤスは鈴木保徳さん。この電報も保存してある。

前妻が病死後、惣之助が再婚したのは萩原朔太郎の妹・周子(かねこ)さんだった。朔太郎が亡くなったのが5月11日。義理の弟ということもあって、葬儀委員長を務めたのが惣之助。その疲れが出たのかもしれないが、15日夜に脳内出血で亡くなった。前日か当日に元気なハガキを書いていた人が、逝ってしまうなんて。まるで小説のような出来事に唖然としてしまう。周子さんは、兄と夫を相次いで亡くしたのである。

 
最後の行に拙著お送りしましたとある
その詩集「はるすぎし」の実物も見せてもらった

 
昭和17(1942)年頃は、港北区川和町折本である
今は都筑区折本町

代表銘菓 惣之助の詩(うた) 


都筑区すみれが丘に「末広庵」という和菓子屋がある。惣之助の名がついた菓子を売っていることを思い出し、由来を聞きに行った。

「ここは支店ですが、本店は川崎の惣之助生家の真ん前にあります。このご縁を大事にしたいと、社長が佐藤沙羅夫さんと契約書を交わして販売することにしました。年間100万個も売れる末広庵の代表銘菓です」と説明してくれた。沙羅夫さんの名前も知っていたので、責任ある立場の人かもしれない。

 
この一角に置いてあるのはすべて「惣之助の詩」
 
「惣之助の詩」のパンフレット


自分の名のついた菓子が人気だと惣之助が知ったらどう思うだろうか。麟静さんによれば「明るくてユーモラスな人」。面白がっているにちがいない。

末広庵に「惣之助は都筑区の真照寺と深いご縁があったんですよ。記事を書いたら、店にお持ちします」と約束した。

直筆の葉書24枚を読ませてもらい、初版本のサインも目にした。その名のついた菓子も賞味した。惣之助が80年も前に亡くなったことを忘れてしまいそうな楽しい取材になった。あらためて、長時間のインタビューに応じてくださった雲井耀一さんにありがとうと言いたい。

(2021年5月訪問 HARUKO記 取材協力 秋山満)


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