「都筑区水と緑の散策マップ」には、区内の緑道や寺社などをめぐる散策コースが載っています。

このマップの最後で、幕末から昭和初期に活躍した都筑にゆかりのある人物と生家跡などを紹介しています。

故人のご子孫や関係者を訪問して、思い出を語ってもらうことにしました 


 


都筑にゆかりがあった”ひと”1回目は、前田収治さん。「川和の赤ひげ先生」と親しまれたお医者さんである。

生まれたのは慶応3(1867)年。数か月で明治時代を迎える時だ。亡くなったのは昭和37(1962)年。95歳というご長命だった。

先生は、江戸時代から続く4代目の医者。

5代目まで続いた医院は今は取り壊され、跡地は駐車場や新しい住宅地になっている。

筆者の住まいが都筑の北端にある北山田ということもあり、南端にある川和の方とのお付き合いは希薄で、前田先生のお名前は聞いた事がなかった。

でも「つづき交流ステーション」メンバーのFさんは「古くから住んでいる人に、みんなに慕われるお医者さんがいたと聞いたので、25年ぐらい前に前田先生の家を見に行ったよ。誰も住んでいなかったけれど、裏が竹林で谷本川(鶴見川)まで続く広い敷地だった」と話してくれた。

今回の取材は、たくさんの人のお世話になった。「都筑区水と緑の散策マップ」制作者のひとり・秋山満さんは、あらかじめ資料を用意し、インタビューにもお付き合いくださった。

川和町内の中山正美さん・智重子さん、城所佳雄さん、中山健さんは、3密を避けねばならない状況にも関わらず、取材に協力してくださった。(左)

年齢から言って当然なのだが、収治先生の記憶はあまりないと言う。でも、医院のたたずまいや5代目実先生と奥様のムラさんの話、川和の歳の市など、初めて耳にすることばかりで、大変参考になった。


川和宿 

グリーンライン「川和町駅」の西側に、かつて「川和宿」と呼ばれた集落があった。「宿を通る八王子道(鎌倉街道ともいう)は、東海道と甲州街道を結ぶ大切な役割を担っていた。享保3(1719)年の文書にも川和宿の名が出ているので、重要な宿場であったのは確かだろうと、「川和の歴史―川和中学校発行」の中で鈴鹿正和先生は書いている。

この「宿」で開かれる市は近隣に知れ渡っていて、特に12月25日の「歳の市」は、一歩進むのさえ大変だったほどの大混雑だったという。90歳ぐらいの数人が、子どもの頃の思い出として話してくれた。

「川和の市」の詳細は別な機会に取り上げたいと思うが、前田医院はこの川和宿の中にあった。

下の地図は「図説 都筑の歴史」の川和の市について、秋山満さんが作成した「各戸と市商人の関係図」を利用した。

市商人は川和の市の時に、八王子道沿いの各戸の前庭を借りて店を開いた。サカナヤ、トオフヤ、ナベヤなどの屋号は、当時の店に関係しているのだろう。





この地図にある家はほとんど残っている。大きな違いは各戸の前庭に家が建ち、新住民が増えたことだ。以前の「宿」の面影はほとんどないが、別な意味で発展を感じる。かつての前田医院(前田医者と呼ぶ人が多かった)の真ん前にあるサカナヤとナベヤの主と庭先で話したのだが、屋号は今でも使っているそうだ。

次の3枚は上の地図の①と②と③の現在の写真。

 
①の前田医院跡地の一部
 
②の天王社

 
③の瑞雲寺

前田医者は江戸時代からあった 

川和村の名主をつとめた信田家には、日記などたくさんの文書が残されている。村民の生業も書いてあるが、文久4(1864)年の記録には、医師1名とある。(前述「川和の歴史」による)。前田家は、少なくとも江戸の終わりには、医者をしていた。

初代と2代目は早死したが、3代目の藤作先生の名前は「神奈川県北東の医史跡めぐり(中西淳朗著)」に登場する。

明治11年頃に、川和の東照寺内に医学講習所が作られた。前田藤作先生はじめ、都筑郡内の足立、刈谷、横山、中山先生ら10数名が発起人になり、週に1回ほど集まって医学の研究に励んだようだ。

「漢方だけでは医学は進まない」と、研究会を開いた若い医師たちの熱気が伝わってくる。

その後この講習所は解散。瑞雲寺の末寺だった東照寺も今はない。左写真は医学講習所跡。瑞雲寺の墓地になっている。背後の緑は、川和市民の森。

散策マップには「東照寺跡」として載っている。この地に立って、明治初期の医者たちが医学に励んだ姿を想像して欲しい。


馬に乗って往診

収治先生は、東京芝の成医会講習所(今の東京慈恵会医科大学)の4回生である。東京で医者を続けたい気持ちがあったかどうか知る由もないが、村に戻って藤作先生のあとを継いだ。

左写真は、5代目実さんの奥様が亡くなる昭和62(1987)年まで住んでいらした前田医院。屋根はトタンで覆っているが、以前は茅葺だった。

収治先生とお付き合のあった石井賢次郎氏は「川和の赤ひげ先生」(「都筑文化」-昭和55(1980)年発行-)の中で、自分の経験といろいろな人からの聞き書きも加えて、先生の人物像を鮮やかに描き出している。少し抜粋する。

・・正面玄関に向かうと大きな広い式台がある。右側には誠に古風なこじんまりとした診療室があり、薬棚、医療器具、医学書が整然と並んでいた・・」

「日夜診療にあたった収治先生の姿は、村人にとっては神様に近い存在だった。今でも”川和の前田医者”の愛称で古老に親しまれている。往診の範囲は都筑郡の大半を占めていたのではなかろうか。ひとりで馬にまたがり、診療鞄を馬の背にふりわけた姿は、まぶたを離れない」

「薬は新薬をあまり使わず、苦味チンキとタンシャリベツと重曹が主な薬だった」

「性格は温厚であたたかい人だったので、貧乏人からは治療費を請求しなかった」

「周辺の村々の校医をしていたが、手当をもらっても学校に寄付していた」

赤ひげ先生 

石井賢次郎氏が書いている「赤ひげ先生」は誰が言い出したのかわからないが、少なくとも先生は髭をはやしていなかったし、ましてや髭が赤かったこともないそうだ。

推測にすぎないのだが、いろいろな人が語る収治先生のお人柄が、山本周五郎の小説「赤ひげ診療譚」の主人公を彷彿とさせたからではないだろうか。本が出版されたのは昭和34(1959)年。映画化されて話題になったのは昭和40(1965)年。収治先生は長男の実先生に診療を任せて、悠々自適の生活を送っていらした晩年の頃だ。小説が有名になり、誰ともなしに言い出した愛称ではないだろうか。

左は平成9(1996)年の川和小学校4年1組の文集の表紙である。後述するが、収治先生のお孫さんが貸してくださった。

川和小学校の4年生が郷土学習の一つとして、城所清さんから赤ひげ先生の話を聞いた。その話をクラス全員が1ページを分担して、文集として冊子にしてある。どの生徒のページも率直で面白かったが、ある生徒の文をコピーさせてもらった。今は34~35歳になっているだろうが、本人を見つけて承諾を得るのは難しいので、名前はボカシておいた。

小学生に感銘を与えた城所清さんから、直接話を聞きたいと思ったが
数年前にお亡くなりになったそうで残念だ。

ほどんどの子ども達が書いていることをまとめてみる。

「先生はお酒と、マグロの刺身が好き」

「言葉はらんぼうで声も大きく身体も大きかったけれど、心はとても優しい人だった」

「貧しい人からは診察料をもらわず、代わりに野菜をもらっていた」

「ドイツ製の自転車に乗っていてハイカラだった。

「腕はよかったので、診てもらうために川和村ばかりでなく川崎や小机の方からも通っていた」

「夜遅くても診察してくれた」


石井氏が「都筑文化」に書いていることと、一致する。

今までの「ひと訪問」と違い、会ったことも名前も聞いた事もない方を取り上げるのは無謀な感じがした。でも調べるほどに、こうした資料も見つかり思わぬ喜びになった。.

収治先生のお子さん、お孫さん、曾孫さん 

収治先生の長男・実先生は、明治25(1892)年生まれ。新潟医専を卒業して医学の道に。横浜の神奈川区桐畑の三島堂医院の院長をしていた。

ところが、昭和20(1945)年の横浜空襲で三島堂医院が全焼。それを機に、生まれ育った川和に戻り、以後亡くなる昭和52(1977)年まで、前田医院で診療にあたっていた。

左写真は5代目の実先生と奥様のムラさん。医院の庭での撮影。自然に恵まれた広い屋敷が想像できる。

ムラさんは、東大の総長だった茅誠二氏の妹。ムラさんを覚えている誰もが、とても上品で賢い方だったと語っている。

「ご子孫はいるはずだ。連絡をとるにはどうすればいいのだろう」と思案していた時に、旧知のTさんが「実先生の次男の伸治さんを知っている」と間に入ってくださった。

割と近い所にお住まいで、秋山さんと一緒にお宅を訪問した。お嬢さんの美幸さん、つまり収治先生の曾孫さんも待っていてくださり、上記の文集や写真をお借りすることが出来た。

私は医者になりませんでしたが、兄は医者になりました。でも川和には戻らず、ずっと東京住まい。だから同じ場所での前田医院は5代目で終わりです」と、伸治さんは語った。

「伸治さんが川和に来た頃は、おじいさまは存命でしたね。どんな方でしたか。馬に乗って往診したという話も聞くのですが本当ですか」

「横浜の桐畑から川和に来たのは14歳。だからいろいろ覚えていますが、馬はいなかったですよ。馬小屋はありましたけどね。自転車も車もない頃の話でしょう

「心が優しい方で赤ひげ先生と近所の人は慕っていたそうですが、そういった思い出はありますが」

「髭はなかったですよ。覚えているのは、酒が大好きだったことですね。ご飯を食べずに酒ばかり飲んでましたよ。患者に優しかったかなど分かりません。診療はほとんど親父がしていましたし」と、少々夢を壊すようなことを言う。

「越してきた頃の川和はどんなでしたか」

第二横浜中学校(今の横浜翠嵐高等学校)に通っていたのですが、交通の便もよくなくて、そりゃあ大変でした。仲間に横浜のチベットの住人とからかわれたものです

「その頃の話をもう少し聞かせてください」

前田家の風呂は五右衛門風呂でした。僕は井戸から水を汲んだり、薪割りや風呂炊きをやりました。おじいさんは、風呂が大好きだったけれど、湯加減が難しかったですよ

古老やお付き合いのあった方が語る収治先生も真実。孫の伸治さんが語る話も真実。「神さまのような人だった」と言われても、家族が戸惑うのは当然かもしれない。

伸治さんがお祖父さんと同居した時、収治先生はすでに77歳。往診の依頼があれば夜中であろうとかけつけた元気はつらつの赤ひげ先生ではない。

「写真を撮らせてください」と頼んだら、「撮られるの嫌いなんです」と断られた。「若い頃のならいいですよ」と自宅の車庫前で昭和37(1962)年に撮った写真を見せてくれた。右端が、伸治さんご夫妻。赤ひげ先生のご子孫は、末広がりである。

直系のご子孫からエピソードが聞ける幸運に恵まれて、楽しい取材になった。赤ひげ先生の話が、この先も語り継がれていくことを切に願っている。

    (2020年6月と7月 訪問 HARUKO記)


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