これまでの”ひと”訪問は、次の訪問者を紹介してもらうリレー方式を取っていた。10回目の羽鳥さんが少し躊躇していたこともあって、失礼を承知のうえでお断りした。

筆者が以前から話を聞きたいと思っていた清水浩さん−81歳−(左)に、登場してもらうことにした。

つづき交流ステーションは、区役所1階の区民活動センターで運営会議をしている。そこで度々お見かけするのが、清水さんだ。

いつも忙しそうな割りには、楽しげでニコニコしている。80歳を超えているのに、足取りも軽やかだ。たくさんの知り合いがいて、みなさんから声がかかる。

「ずいぶん都筑になじんでいるようだけど、どんな活動をしているんだろう」の素朴な疑問が今回の訪問につながった。


     今あるのは墓地移転のアルバイト

「今、こうして地域で活動しているのも、そもそもは60年前のアルバイトにあるんですよ。運命の出会いかもしれません」と語り出した清水さん。

学生時代に、六本木(東京都港区)の区画整理現場でアルバイトをしていた。六本木の墓地を烏山(世田谷区)に移転する事業に関わり、たくさんの人と交わってきた。

学生時代のアルバイトが、のちに港北ニュータウンで区画整理を担当する仕事につながった。「区画整理といえば清水さん」と言われるほど、その道の名人になったきっかけが、学生時代のアルバイトだったことは面白い。

昭和30(1955)年に、日本住宅公団(現在の都市再生機構)が発足。発足と同時に、東京都区画整理事務所から公団に転職した。

昭和50(1975)年に、港北ニュータウン開発局に配属された。ニュータウン計画の経過は次の項で述べるが、工事着手は清水さんが配属される1年前のことだ。

およそ5600名の地権者全員の了解を得られないことには、計画は進まない。清水さんは、何度も説明会を開いて根気よく説得にあたった(左)。40歳半ばだけに、お若い!

地権者全員の換地(自分の土地を手放して他の地に移転)が終了したのは、昭和56年。6年間にわたり、区画整理と住民の交渉を献身的にこなした。

「もし大規模な区画整理をしなければ、今のような利便性の高い町は生まれなかったんですよ。区民は、このことをぜひ知ってもらいたい」と熱く語る。

その頃知り合いになった大地主や小宅地の人たちとの交流が今でも続いている。「町内会活動にスムーズに入れたのは、区画整理のベースがあったからなんです。○○ちゃんと呼べる人が大勢いるんですよ。そのころの人脈のおかげで、今があるんです」と、楽しそうに話す。


    港北ニュータウン計画

港北ニュータウン計画当時のことを知らない人も多いと思う。清水さんから聞いた話をまとめる形で、経過をたどってみたい。

横浜市の飛鳥田市長は、昭和35(1960年)に横浜市6大事業を発表した。その1つが港北ニュータウン計画である。東急の開発が先行していたところに、市が日本住宅公団に開発を委託した。

最初の計画では、ニュータウン地区は25平方キロメートルだった。ニュータウンに入りたくないという地区が出てきて、最終的には13平方キロメートルになった。都筑区に畑と竹林がたくさん残っているのは、区画整理をしない地区があればこそだ。区民が地産地消の生活ができるのは、こんな背景がある。

ニュータウン計画が持ち上がったころは、山と田畑とわずかな農家が点在していた。「ここが港町・横浜市か」と誰もが驚く純農村地帯だった。

左は、工事着手前年に撮影した、現在のセンター南駅近辺の航空写真。住宅公団(都市再生機構)に提供してもらった。

実際に工事に着手したのは昭和49(1974)年だが、昭和42(1967)年から、日本都市計画学会が総力をあげて計画を練った。多摩ニュータウンや千里ニュータウンとは違って、初めての自主設計の街づくりだった。

「港北ニュータウンは、横浜市と公団と地元リーダーの3者が関係していたと聞いていますが、開発の責任者・推進者は、ずばり誰だったんですか」と聞いてみた。

「それは、住宅公団の初代開発事務所長だった川手昭二さんです」と、まよわず返ってきた。「区画整理にあたっての住民との折衝の責任者は、僕でした」と清水さんは、さらりとおっしゃる。

街づくりにあたっての目標は、通勤・通学・買い物・散歩への道がすべて緑に包まれた歩行者天国である。

具体的には、@ 身近な自然を親しむ街 A 子ども時代に、ふるさとの原風景を蓄積してもらう街 B 歩くことが楽しい街 C 一家で歩いて地元の広域センターで楽しめる街 の4つの実現を目指した。

歩行者を大事にする1例が、U字型の行き止まり道路を各所に作ったことだ。通り抜けだけの車を極力少なくする工夫が、各所に見られる。「清水さんのせいで、回り道をしなければならない。タクシー代が高くなる」の冗談が、今でも言われるそうだ。


   崩れゆく港北ニュータウン

「ニュータウンは当初の理想通りになっていますか」と少し意地の悪い質問をしてみた。

「そうですねえ。日本でも有数のニュータウンだと思いますよ。歩車道分離・133もの歩道橋・歩行者専用道のネットワークコミュニティ道路・U字パターンの行き止まり区画道路(左)など、全国のモデルにもなっています」。

「このように、道路・公園・緑地は住民が喜ぶ環境になっていますが、一方では崩れゆくニュータウン現象も起こっています」と、心配する。

「問題は、個人の財産や考えを強制できないことなんです。次第に宅地が細分化され、そこでどんな商売をしようが、農地をつぶして駐車場にしようが文句をつけられません。そのうち、ゴミゴミしたつまらない街に転落するおそれもあります。せっかくの美しい街が破壊されないために、考えなければならない時期にきています」。

「小学校は当初の計画では27校でしたが、15校(NT地区内)しかありません。中学校も13校の予定が6校です。市は児童数の減少を言ってますが、大規模校がかなりあって問題です」。

「器は立派でも、中身の充実には人間の交流が必要です。でも約7万5千所帯のうち、町内会に入っているのは4万所帯にすぎません。これもコミュニケーションという点では、好ましい現象ではありません」。

40代半ばから携わっていたニュータウンが完成したときは、清水さんは「男冥利につきる」と感無量だった。でも今は、必ずしも理想通りになっていない。崩れゆくニュータウンを、なんとかして食い止めたいと思っている様子が伝わってくる。


     人脈も視野も広くなった

清水さんがニュータウンに居を構えたのは、区画整理の仕事が終わって数年後のことだ。知り合いになった地元の不動産屋に勧められて、茅ヶ崎南に宅地を求めた。

そうなると、区画整理の頃からの知り合いが、ほってはおかない。町内会の役員を経て、3年前から勝田茅ヶ崎地区連合町内会の会長を、本人の弁によれば「やらされている」。

役所と町内会のありかたに矛盾を感じつつも、仕事を通じての旧住民に加え、新住民との付き合いも広くなった。「おかげで、人脈も視野も広くなりました。思わぬ出会いもたくさんあります」と、嬉しそうだ。

「茅ヶ崎公園愛護会」の会長も引き受けている。この愛護会は平成7(1995)年に結成。。茅ヶ崎公園は、人工的に整備された遊具などが置いてある広場ではない。雑木林・竹林・池・せせらぎなどの自然を、できるだけ当時のままに残してある。

清水さんら公園愛護会のメンバーは、下草刈り・落ち葉の清掃・樹木や竹林の保全以外に、新たに花壇を作る作業(左)もしている。

作業をしていると、公園を散歩している人から声をかけられることが多い。東京横浜独逸学園が近いせいか、ドイツ人と話すこともある。こうして新たな出会いが生まれることもあれば、愛護会に入会してくれる人も出てくる。

公園内の日本庭園と清流は、平成19年度の「ヨコハマ市民まち普請事業」のコンテストに選ばれて、復元した。

男冥利につきる区画整理の本職を終えたあとも、自分が関わった地に暮らし、地域住民の和に心をくだき、崩れゆくニュータウンを食い止めようと努力している。

「こんな方が都筑に住んでくれていて本当に良かった」と思える訪問になった。「いつまでもお元気で」と願わずにはいられない。


     つぎの訪問は井上晴彦さん

清水さんが紹介してくれた次の訪問者は、井上晴彦さん。ふれあいの丘連合町内会の会長さんである。連合町内会の区分の見直しについて、改善案をお持ちだと聞いている。どんな話が聞けるか楽しみにしている。

                                            (2011年2月訪問 HARUKO記)

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