大野村農園の代表である菊地将兵さん(33歳)から話を聞いた。大野村農園は、福島県相馬市にある。 正確に言うと「つづき人」ではないが、 菊地さんは都筑区を拠点に活動しているNPO法人「結ぶ」とは深い絆があり、震災復興などのイベントで何度か区内を訪れている。 筆者は去年の11月に「結ぶ」主催のバスツアーで福島県を訪れ、「植樹で繋がる被災地へ」をレポートした。その時の訪問で、菊地さんたち若者が震災の風評被害にもめげず、未来に向けて動き出している姿を見聞きした。なんて素晴らしい若者がいるのだろう、いつかじっくり話を聞いてみたいと思っていた。 そのチャンスは意外に早く訪れた。やはり「結ぶ」主催の「わすれない3・11」のイベントに菊地さんら3人が招かれ、3月9日に講演をした。講演後にインタビューの時間をとってくれた。 インタビュー中に知ったことだが、センター北で1年間ほど働いたことがある。ここでの経験が、今の生き方を決める一つのきっかけになったという。詳細は別項で。
左は菊地さんの名刺。無心に食べている男の子を見ているだけで、頬がゆるんでしまう。このイラストは将兵くんが描いた。(以後「結ぶ」のみなさんが呼んでいる将兵くんを使う) 将兵くんが目指している生活は、このイラストに尽きるのではないか。 「三食ちゃんと食べられるって、ほんとうに幸せだと思うんです。幸せを生み出す農業ほど素晴らしい仕事はないと20歳過ぎて気づいたんです。特に子どもが生まれてからは、良いものを胸をはって食べさせたいの思いが強くなりました」と将兵くんの語りは最初から熱い。 ブロッコリーやキャベツなど20種以上の野菜も作っているが、今、全国から注文が殺到しているのは、相馬ミルキーエッグ。10個入りのケースが830円。スーパーで売っている卵は、10個で200円前後だから、大野村農園のミルキーエッグは高い。 830円のうち30円は貧困家庭や母子・父子家庭などの援助にあてているが、注文者はそれを承知で買っている。値段が高くても、この卵の安全性と美味しさと菊地さんの思いを理解している支持者からの注文は以前からたくさんあった。 でも2月21日にテレビ東京の「カンブリア宮殿」の番組で、この卵が紹介されてからは、注文に追いつかない。数ヶ月先まで待たねばならない状態だ。 「注文に追いつかないなら、鶏を増やせばいいのに」 「今は700羽ぐらい飼っていますが、マックスでも1000羽と考えています。それ以上増やすと目が行き届かなくなります」 「一日に卵はどぐらいとれるんですか」 「約480個。1週間に5回産んでくれます。ゲージで育て人工飼料を与えられている鶏より効率は悪いんです」 ここの鶏は狭いゲージに閉じ込められず、放し飼いされている。放し飼いと言っても囲みはある。囲みがないとイタチにやられてしまうそうだ。市販の飼料はいっさい使っていない。夏は草をついばんでいるが、緑が少なくなる季節には、農園で育てたキャベツなどを惜しげもなく与えている。1日に40個ほどのキャベツが鶏の餌になる。 相馬には良好な漁港がある。魚市場や魚屋や料理屋で捨てられるアラや魚をもらってきて、これも惜しげなく食べさせている。もらってくるというより、物々交換だ。アラや米屋でヌカをもらう代わりに卵や野菜をあげる。 将兵くんの仕事のひとつが、物々交換で鶏の餌をゲットすることだ。物々交換。なんていい響きだろう。地域の人たちとの温かい交流が、その言葉ひとつで想像できる。
ミルキーエッグを、オムライスやイタリア風オムレツなどに使いたいというレストランも増えている。レストランは福島ばかりでなく、新宿や仙台にもあるので「大野村農園」のHPで確かめてほしい。
「大野村農園は代々続いているんですか?」 「僕が始めた農園です。僕には父親の記憶がないのです。シングルマザーの母は、僕を小学校6年までじいちゃん、ばあちゃんの家に預けました。ひいばあちゃんもいました。じいちゃん達は農作業で忙しかったので、家にいるひいばあちゃんには、本当に可愛がられました。自給自足なので食べるものに不自由はなかったし、近所の人も面倒見てくれたので、寂しい思いはしませんでしたよ」 「じいちゃん・ばあちゃん・ひいばあちゃんの事を話すときの将兵さんは、幸せのオーラが出ています。愛情深く育ててもらったんですね」 「中学になって母に引き取られました。高校には行ったのですが、1年で退学しました。田舎ではブラブラしていると目立つから、なるべく家の中にいるようにと母から言われる始末。ゲームをするなどろくでもない生活をしていました。でも身体は鍛えていましたよ」 「じいちゃんたちからは『自分の居場所は自分で作れ』と散々言われました。漫画も絵を描くことも好きだったので、18歳の時に仙台の漫画専門学校に入りました。絵がうまくなっても伝えるものがないと駄目だと悟ったので、漫画家にはなりませんでしたが、文を書く訓練は今に生きています」 「だから将兵さんは文章も絵も上手なんですね。どこでその才能を磨いたのだろうと思ってましたが、納得です」
「農業を始めるのはまだですね」 「21歳の時に、ひいばあちゃんが死んだのですが、最期の言葉は『お母さんに心配をかけるんじゃないよ』でした。可愛がってもらった人のこの言葉で目覚めました。21歳で上京。たまたま目にした万引きGメンの仕事に興味を持ちました。なんで万引きするんだろう?」 「派遣先の一つが、センター北の大型スーパーだったのですね」 「万引きした人の話を聞くと、ほとんどの人が生きるために食べ物を盗むことがわかったのです。いろいろな理由で貧困に陥り、そこから抜け出す術がない人がたくさんいます。僕は経済的に豊かではありませんでしたが、ひもじい思いは一度もしていないし、愛情深く育てられました。この仕事を通して、都会の貧困と無関心を痛感しました」 「万引きGメンしながら、池袋でホームレスの人に炊き出しボランティアもしていました。でもボランティアするにもお金がかかります。悩んでいた時に、岩手県の農家の人が『これを使ってくれ』と米をたくさんくれたんです。困っている人を助けられる農家はすごいなと思いました。じいちゃん、ばあちゃんが今もやっている事じゃないか」 「居場所を見つけたわけですね」 「そうです。万引きGメンと炊き出しボランティアの経験を経て、農家になろうと決意しました」 農業で生きる決心をした将兵くんは、群馬・茨城・三重・香川などで農業研修に励んでいた。香川の研修で知り合ったのが後に結婚する陽子さん。 最初は陽子さんの両親が大反対だったという。無理もない、香川から遠いうえに、こともあろうに原発被害があった地になぜ行くのか。でも将兵くんは「1年後には迎えにくるから」と、ひとり相馬に戻った。 大野村農園にとって陽子さんの存在は欠かせない。注文など一切を引き受けているばかりか、写真の整理なども彼女の役目だ。「こういう写真が欲しいんですが」の要望にスピーディーに応えてくれた。このレポートにある11枚は陽子さんの提供。 上は1年半前に撮った幸せ一杯の家族写真。今は長男の松陰くんは5歳、長女の花ちゃんは3歳。
農業研修に励んでいた時に東日本大震災が起きた。出身地の福島県は、原発被害の地「フクシマ」という言葉で世界中に有名になった。 風評被害の地・相馬で就農するのは、絶望的な状況だった。でも将兵くんは「もちろん不安はありましたよ。でも僕は相馬に育てられたんです。ふるさとに恩返ししたい気持ちは当然でしょう」と言う。 驚くことに震災から2ヵ月後に、相馬の地を踏んだ。借家と農地も探さなければならない。ゼロというよりマイナスからのスタートだった。風評被害で売り上げが減った農家には賠償金が出たが、将兵くんのように新規農業者は対象にならなかった。 「この頃はつらかったですよ。同級生すら『悪いけど子どもには食わせられない』と野菜を買ってくれませんでした。でも安全性を理解してくれる人が次第に増え、軌道にのりました。ここにくるまで4年」 「その頃のことを思うと感慨ぶかいですね。今は相馬市の小学校は給食に相馬産のものを使っているそうですね」
「そうなんです。去年の11月からは相馬唯一の伝統野菜『相馬土垂(そうまどだれ)』というサトイモも、給食に使ってくれるようになりました。相馬土垂は昭和50年代までは相馬の一部の農家で栽培されていましたが、いつの間にか消えました。相馬の名産をなくしてはいけないと、ぼくが復活させました。小学生が芋ほり体験にも来てくれたんですよ。たかが芋ほりではありません。この町が動いた一歩なんです」と、嬉しそうに誇らしげに語った。
菊地家では、農家民泊もしている。「泊まった人はヤギと散歩したりブタにさわったり、畑の収穫もしてもらいます。朝の卵集めは大人気。産みたての卵が温かいと感激する人もいますよ。そのまま卵かけご飯。食事を作るのは嫁の役ですが、とっても味付けが上手なんです」とおのろけも忘れない。
農業ボランティアには、大学生や外国人も来てくれる。「最初は”助けたい”と思って来てくれましたが、最近は居場所のない人が”助けてくれ”と来るようになりました。ぼくは親にはなれないけれど、隣のお兄ちゃんにはなれますから」 将兵くん自身が居場所探しを模索していたつらい過去がある。迷える若者の”よきお兄ちゃん”になれるだろう。
「東日本大震災の被災地をもっと知ろう」と、3月9日と10日に復興イベントが、都筑区で「結ぶ」の主催で行われた。今年で第8回になる。図子理事長が「被災地を応援することで逆に私たちも勇気をもらっている。この絆をいつまでも続けたい」と挨拶した。 9日は歴史博物館の講堂で「被災地の食はどうなっているのだろう」を主題に、相馬のりんご農家・畠利成さんと将平くんの講演があった。ふたりとも「福島は元気です。安全で美味しいものがたくさんあります。ぜひ来てください」と呼びかけた。 10日はセンター北駅広場で、東北に元気を届ける太鼓や歌やダンスが披露された。被災地の食材を売る屋台も大賑わい。特に相馬の漁師さんたちが作る「鈍子(どんこ)のつみれ汁」と「浪江焼き蕎麦」には長蛇の列ができた。
相馬にバス旅行をした時に感じた「すばらしい若者」「こちらが元気をもらえる若者」の印象は、詳しくインタビューすることによって、その気持ちはさらに深くなり、心地よいインタビューになった。 (2019年3月訪問 HARUKO記) |