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二宮さん地下鉄「中川駅」から徒歩1分の、中川1丁目にある遊山房」の主・二宮倫行さん(左-62歳−)を訪問してきた。

遊山房(ゆうざんぼう)の大きな看板には、「和の文化教授所」とあり、コンクリート造りマンションの1階ながら、そこだけは異空間だ。和風建築の引き戸と簾が、和の文化伝授にぴったりの雰囲気を出している。

中に入ると、もっとびっくりする。太い梁がむき出しの天井と黒光りの床板。滋賀県の古民家で使われていた古材を、ここ都筑まで運ばせたそうだ。

”ひと”訪問は、いつも長引いてしまうが、この時も「僕はかまいませんよ」の言葉に甘えて、3時間ものインタビューになった。





 体力と気力があるうちに自立したい!
 
遊山房の内部遊山房を設立したのは2000年4月。大手商社に勤めていたが、50歳で退職。会社の仕事に違和感を覚えていたこともあって、準定年制度は渡りに船だった。

「会社を早く辞めたい気持ちは、ほとんどのサラリーマンが1度は持つと思います。でも、しがらみがあってなかなか踏み切れません。奥様は反対しませんでしたか」と聞いてみた。

「もちろん、かみさんや子どもたちは大反対。でも、体力と気力があるうちに自立しようと思ったんです。何十年も能楽に関わっていたので、”和”を広めたい気持ちがありました。芸が身を助くですよ。伝統芸能が消えたら、日本が日本でなくなります」と、辞めることに迷いはなかったようだ。

設立から12年、和の文化教授所は、文字通り日本の伝統芸能を伝える場になっている。今は、能楽(金春流)・沖縄三線・茶道(遠州流)・陶芸・和裁・書道の教室がある。

左写真は、遊山房の内部。壁にかかっているのは、秦野の農園で収穫した五穀。




謡曲の稽古主の二宮さんは、金春流の謡と仕舞を指導している。「高砂やを謡おう会」の会員が、毎週土曜日(月3回)に稽古をしている(左)。能楽シテ方金春流教授に気軽に教えてもらえるのは、なんと恵まれていることか。

他の芸能はそれぞれの専門家が教えているが、いずれもお目にかなった方ばかりだ。

2001年には、「こどものまなびや遊山房教室」も設立した。国語と算数を教える小学生の学習塾で、考える力作り(ことば力)を徹底的に鍛えている。こどもに真の学力と生きる力をつけさせたいという熱い思いが、言葉の端々に溢れている。

「そうですね。国語ができないと、算数も理科も社会も、理解できませんからね」と、私は二宮先生の熱弁にいちいち頷いていた。


大学生の時に金春流に出会った 

二宮さんが、金春流を始めたのは偶然だった。早稲田大学で入部したサークルは、体育会系の合気道部。合気道は4段の実力者である。今はやっていないが、合気道で身につけた所作は能でも役立っている。

4年生の時に、合気道部の後輩が金春流の能の会にも入っていると聞き、気軽にのぞいてみた。本格的に謡と仕舞を稽古をする会だったが、いつの間にか金春の世界に入り込んでいた。学生時代に指導してもらった本田光洋先生は、今は金春流の重鎮。長い師弟関係が続いている。

鵺を演じている二宮さん商社の初任地が関西だったので、奈良の金春流の先生を紹介してもらった。奈良には、興福寺の火の神に捧げる薪御能たきぎおのう)や、春日神社の若宮の神に捧げるおん祭りなどの伝統行事があり、能を学ぶには、絶好の地だった。

会社勤めの傍ら、年に10回ほど舞台に上がり、地謡やツレを務めるまでになった。平日の公演は夜だったので、仕事に差し支えることはなかった。社会人2年目には、能楽協会にも入会している。左写真は、秀麗会で「鵺ぬえ)」を演じている二宮さん。

「合気道部を選んだのも珍しいと思いますが、さらに能楽というシブい世界に興味を持ったのはなぜですか。当時は伝統芸能よりもジャズやポップが盛んでしたね」

「たしかに、当時は伝統芸能は風前の灯でした。学生の頃は能楽堂の客席は1〜2割でしたよ。今は8〜9割は入りますが。そんななかで、なぜ興味を持ったかですが、もともと両親も和のものに関心があったし、中学の美術教師が茅葺屋根のスライド写真を見せてくれたことで、日本美に対する感性が磨かれたんです」


「つづきの丘薪能」 の復活

都筑区誕生の頃から住んでいる方は、「つづきの丘薪能」を覚えているかもしれない。二宮さんが、1994年に薪能の興行企画を区役所に持ち込んだところ、区の設立記念事業としてやらせてもらえることになった。

第1回目は、1995年9月に葛ヶ谷公園で行われた。能の演目は、観世流の「松風」(梅若万紀夫)、金春流の「鞍馬天狗」(本田光洋ほか地元の子どもたち)。2600人もの観客が集まり大成功に終わった。大勢のボランティアにも支えられた。

つづきの丘薪能 能「鞍馬天狗」 ボランティアスタッフ
 
葛ヶ谷公園で行われた第1回つづきの丘薪能

能「鞍馬天狗」には、地元の子どもたちもたくさん出演した 

おそろいのTシャツを着て公演を支えたボランティアスタッフ 

ところが、区の助成金もなくなり、企業の協賛金も減るにつれ、入場料金だけでは赤字になる。やむを得ず、5回で打ち切った。

その時鑑賞できなかった私を含め、薪能復活を望む声はたくさんある。東京まで行かなくても、横浜の西区には立派な能楽堂もあるし、鎌倉や熱海で見るチャンスはある。でも区内での公演なら、子供でも足を運べる。気軽に伝統芸能にふれあう場があれば、若い人にすそ野が広がることは間違いない。

「都筑区は商業的には発展しましたが、文化面となるとイマイチだと思うんです。区の顔として薪能を復活させてください。縁の下のお手伝いならできますから」と、頼んできた。

二宮さんは、10回目になる「鎌倉建長寺での巨福能」を主催しているので、プロデース力も持っている。でも、大きな公演となると、個人の力では限界がある。もともと能楽は、パトロンが支えることで続いてきた芸能だ。都筑区にも、文化に理解のある人や企業が出てきてくれないものかと思う。


仕舞「人間五十年」 

高砂やを謡おう会」のメンバーは、横浜能楽堂での発表会「五流交流のつどい」に、毎年出演している。ちなみにに、5流は、観世・宝生・金春・金剛・喜多の流派を言う。

2月18日の15回目のつどいには、5人が出演し、それぞれが「人間五十年」を謡いながら舞うという難しい演目に取り組んだ。仕舞「人間五十年」は、織田信長が好きで最期に舞ったとも伝えられている。能の仕舞ではなく、今は廃れてしまった幸若舞だ。節や型が残っていないので、先生が節も型もつけたオリジナル作品。

本番3週間前の土曜日、稽古している場にお邪魔した。仕舞の動き、特に足さばきに厳しい叱責が飛ぶ。舞台への出方・扇のとり方・座り方など細かい所作も注意される。

熱心な指導と稽古の甲斐があって、本番の舞台は大成功で拍手喝采をあびた。めったに褒めない二宮先生が「よくできました。それぞれの人生が現れていました」の言葉を発したほどだ。

仕舞の稽古 横浜能楽堂 人間五十年の仕舞
厳しい叱責が飛ぶ稽古 染井能舞台を移築した横浜能楽堂  「人間五十年」 の仕舞


 わたしの人生は能と農

「わたしの人生は能と農なんです」と語る。もともと能楽は農を基に成った芸能だから、能と農は、語呂合わせでもなんでもない。

農の方だが、2006年4月に「はだの自然農の郷・遊山房」を開いた。二宮家の先祖が秦野の出だと言われていることもあって、ここに土地を求めた。住所こそ秦野市だが、表丹沢の標高300メートルの所にある里山だ。2008年には家屋敷を手に入れ、週3日(日月火)を秦野で過ごしている。耕やさず農薬も肥料も使わない自然農を実践している。

日曜は自然農法の教室を開いているので、自分の畑仕事ができるのは月火だけだ。「3日間専念すれば、自給率は10割になりますが、今は7〜8割ですね」と二宮さん。

今作っている穀物は、米・キビ・豆・蕎麦。蕎麦は、宮崎の椎葉村の在来種を手に入れて栽培している。蕎麦の実を石うすで挽いて、蕎麦打ちもしている。蕎麦打ちをしている人は多いが、ここまで拘っている人は少ない。本物を求める情熱と、その環境があることを心底羨ましくなった。

茶道教室の生徒たちと、茶摘みをやり釜で炒って、お茶も作っている。全部手作業なので、腰を痛めた人もいるようだが、話に聞くだけで、香ばしい匂いがしてくる。

はだの自然農の郷 苗床作り 茶摘み

はだの自然農の郷 は、気持ちが伸びやかになる

野菜の種をまく苗床作りの指導をうけている 生徒たち

となりの茶畑で茶摘み。このあと釜で炒って茶を作った 


「自分はこんな風に生きたい」と願っていても、そうそう理想通りにいくものでもない。60歳を超えた二宮さんは「わたしの人生は能と農です」の標榜通りの生活している。でもその素地は、若い時に培われた。「定年になったら」「暇になったら」と思いがちだが、早くから準備しておくことも大事なのではないか、そんなことを思いながら、遊山房を後にした。  (2012年1月と2月 訪問 HARUKO記)

 

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