「都筑区水と緑の散策マップ」には、区内の緑道や寺社などをめぐる散策コースが載っています。

このマップの最後に、幕末から昭和初期に活躍した都筑にゆかりのある人物と生家跡を紹介しています。

故人のご子孫や関係者を訪問して、思い出を語ってもらうことにしました。



ゆかりの”ひと”3人目は、牧野よしさん。左は、明治21(1888)年、45歳ころの写真。

よしさんは、天保14(1843)年に都筑郡池辺村(今の都筑区池辺町)で、小泉源兵衛の3女として生まれた。

有名なヘボン博士夫妻と30年間も行動を共にした女性である。

すでに亡くなった方の”ひと”訪問ほど難しいものはない。女性が脚光をあびることが少なかった時代ゆえに、残された資料も乏しいし、直接知っている方はみな鬼籍に入っている。

数十年前なら、生前のよしさんを知っている人がかなりいたのだが、悔やんでも仕方ない。

でも、孫の牧野正さんや小泉淳一さんが、「祖父母のことを子孫に書き残したい」と執筆を依頼した冊子が残っている。

『激動の時代に生きた女性:牧野よし一家とヘボン博士夫妻』。石井賢次郎著。昭和58(1983)年刊。

他にも緑区文学散歩(都筑区誕生前は池辺町は緑区)など、いくつかの資料をもとに、よしさんの一生をご紹介したい。

「ご存命の子孫がいるに違いない」と、秋山さん(「都筑区水と緑の散策マップ」の編集メンバー)が足を棒にして調べたところ、曾孫の三留正子さんが池辺町に住んでいることが分かった。血がつながっている方にインタビューしたことで、よしさんをより身近に感じることができた。

 江戸城大奥で奥女中の行儀見習い


 

よしさんは13歳の時に、江戸城の大奥に行儀見習いとして入った。江戸末期の池辺村は、天領とはいえ、ひなびた農村だったと思われる。「どうしてこんな農村から江戸城へ?」と思わずにはいられない。

よしさんの叔母が、麹町の山王神社(今の日枝神社)の神職に嫁いでいた。その叔母が、小さいころから利発で礼儀正しい姪を、幕府の役人に推薦したようだ。

写真は、池辺町に残っている生家の小泉家。のちに牧野英語塾や和裁塾を開いた所でもある。もちろん当時の建物ではない。

大奥時代のエピソードを孫の小泉淳一さんが書いている。

大奥では俳人を呼んでの俳句研修会も行われ、その時の思い出をよく話してくれました。祖母が作った俳句『太そばを打ってわが家の年忘れ』と、短歌『柿の木も 畑も昔と変わらねど なぜか人のみ 変りはつらん』は、今でも覚えています」

大奥は、奥女中の地位に相応しい所作や教養を身につける場でもあったようだ。

よしさんが大奥に入ったのは、安政3(1856)年。日米和親条約が結ばれて日本が開国した年だ。10余年後に幕府は崩壊し明治を迎える。

開国したことで、江戸城内もてんやわんやだったに違いない。文久2(1862)年、20歳の時にお宿下がりして、池辺村の実家に戻ることになった。

 ヘボン博士夫妻との30年

池辺村に戻っていたよしさんに、神奈川奉行所から思わぬ依頼があった。アメリカ人のヘボン博士の家に住み込みで働いてくれないか、というものだった。文久3(1863)年、よしさんが21歳の時。

ヘボン博士が宣教医として日本に来たのは、安政6(1859)年。幕末から明治にかけて来日した欧米人の中で、ヘボン博士の知名度は抜群だろう。

駅名など日本で見るローマ字のほとんどは、博士が考案したヘボン式である。英和辞書を作ったのも、新旧聖書の和訳も彼の功績だ。明治学院やフェリス女学院の創立者でもある。

江戸城の大奥とはまったく環境が違う異人の家で働くことを頼まれた彼女に、戸惑いや怖さはなかったのだろうか。可能ならインタビューして、本音を聞いてみたい。

前の年にイギリス人が薩摩藩士に殺傷された生麦事件が起きている。外国人の家で安心して働ける時代ではなかった。

でも、適応力が高かったのだろう。明治25(1892)年に夫妻がアメリカに帰国するまでの約30年間、夫妻と行動を共にしたのである。ヘボン邸で働いていた粂七さんと結婚しても、子どもが生まれた後も、夫妻を支え続けた。

左はヘボン博士が彼女に贈ったサイン入りの聖書。
「To y.Makino from Dr Hepburn 1892」とある。

このサインを見れば、博士夫妻とよしさんが深い信頼で結ばれていたことが分かる。

編集者は、米国人 博士平文となっている。ヘボンを漢字にあてはめた「平文」の字もよく使っていたそうだ。

Hepburn の名は、「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーンや、「旅情」のキャサリーン・ヘップバーンでおなじみ。日本での表記はヘップバーンだが、幕末の日本人は、「ヘッバン」の発音をヘボンと聞いたのだろう。

英語とキリスト教


よしさん夫妻は、博士がアメリカに帰国するとすぐ、池辺村に戻っている。「ヘボンさんがいない横浜なんて・・」と思ったかどうかは定かではないが、よしさんに強い影響を与えたと思われるヘボン博士の横浜での足跡をたどってみたい。


ヘボン博士 どの写真を見ても知性と品位を感じる


成仏寺から移り住んだ山下町のヘボン邸。隣にグランドホテルが建っていた。
 

安政6(1859)年に来日直後は、成仏寺(神奈川区)を改修して住んでいた。

1862年に山下町の外国人居留地に移り、住居と診療所と礼拝堂を備えた広い邸を建てた。「成仏寺の入母屋造を博士が気に入っていたので、それを取り入れた」と大工が語っている。

よしさんがヘボン夫妻に雇われたのはこんな時である。聡明なよしさんは、家事以外に診療の手伝いもしていた。博士の名医ぶりは「ヘボンさんでも草津の湯でも恋の病は治りゃせぬ」と歌われたほどだった。

明治学院やフェリス女学院の源流になったヘボン塾もこの邸内にあり、主にクララ夫人が英語を教えた。総理大臣になった高橋是清や三井物産創設者の益田孝や日英同盟を結んだ林菫外務大臣もここで学んでいる。

よしさんの英語の上達ぶりは夫妻を驚かせ、のちにヘボン塾の教師も務めるようになる。日本人初の女性の英語教師と言われている。この邸は今はないが、跡地には石碑が建っている。

 
ヘボン塾の跡地には石碑が建っている
博士のレリーフと案内板がある
 
ヘボンが建てたレンガ造りの指路教会(shilo church)は関東大震災で倒壊
今の建物は大正15(1926)年の再建 関内駅から徒歩2分の所にある


明治8(1875)年に、ヘボン塾をJ.C.バラに引き継ぎ、山下町から山手町に移転。旧約聖書と新約聖書の和訳に専念するためだったと言われる。

ヘボン夫妻がキリスト教伝道のために地方に行くときも、よしさんは同行し通訳を務めた。洗礼も受け、亡くなるまで熱心なキリスト教信者だった。

今も関内駅近くにある指路教会(shilo church)は、ヘボン博士が建立した教会。レンガ造りだったが、関東大震災で崩壊し、今の建物は大正15(1926)年の再建である。よしさん夫妻は、池辺村に越した後も指路教会に通い、牧師たちと交流を続けていた。

孫の小泉淳一さんは「池辺の自宅で日曜学校を開いたり、和裁や英語を教えていたことを子どもの頃に見ています。祖父母が話してくれた『汝の敵を愛せよ』など聖書の教えは、私の人生のプラスになっています」と書いている。

ちなみに、ヘボン夫人のクララさんは1906年に91歳、博士は1911年に96歳で、アメリカで亡くなった。

 よしさんの家族


明治2(1869)年、よしさんは、ヘボン邸にコックとして入り後にヘボン家の執事を務めた粂七さんと結婚した。池辺村に近い本郷村の地主の4男だった。

小泉家から数百メートルしか離れていない牧野家に子どもがいなかったので、結婚を機に夫婦養子になった。

左写真は明治17年8月撮影。左から、よしさん、長女の貞さん、次女の和歌さん、粂七さん、長男の貞次郎さん。後に3女の信さんが生まれている。

夏だから浴衣というのは分かるが、洋館で働いていたのに、いつも和服を着ていたのだろうか。洋装姿のよしさんの写真は1枚も見ていない。

長男の貞次郎さんはヘボン博士の勧めで東京の医学校に通っていたが、学業半ばでチフスにかかり亡くなった。

長女の貞さんは池辺村出身の三留家に嫁いだ。その孫が後述する正子さん。

次女の和歌さんは従弟の小泉家に嫁いだ。その息子が淳一さんで、祖母の思い出を語っている。上項目の青字の部分。

3女の信さんの息子が、牧野正さんである。正さんは『激動の時代に生きた女性:牧野よし一家とヘボン博士夫妻』の冒頭の挨拶で、「蔵にたくさんあった古文書や文献がいつの間にか持ち出されて、気づいた頃には目ぼしいものはありませんでした。でも祖母のことを書き残さねばと思い、まとめてもらいました」と書いている。

出版にかかわった牧野正さんと小泉淳一さんは、出版時の昭和58(1983)年に70歳を超えていらした。その息子さん達も、お亡くなりになったり病気だと聞いている。

よしさんは昭和5(1930)年、88歳で、粂七さんは昭和6(1931)年、95歳で亡くなった。当時としてはまれにみる長寿だった。だから池辺村で過ごした晩年も30年以上になる。

長寿ゆえに、祖母が英語や和裁を教えていたことを、孫たちはよく覚えている。日曜学校でイエスの話を聞いたり讃美歌を歌うのが楽しかったとも言っている。

左写真は牧野塾の生徒たち。英語に関心を持つ生徒は少なかったが、農閑期には和裁の生徒がたくさんいたそうだ。

よしさんの曾孫 


ご子孫の消息が分からないで困っていたとき、秋山さんが、福聚院の住職から、曾孫の三留正子さんが健在であることを聞きだしてくれた。福聚院にはよし夫妻が眠っている。熱心なキリスト教徒だった夫妻の墓が、真言宗の寺にある理由は分からないが、小泉家、牧野家、三留家の多くがここの檀家である。

よしさんの長女・貞さんは生まれた時からヘボン夫妻のそばで育ったので、ネイティブと同じように英語が話せた。ヘボン塾を手伝うこともあったようだ。

貞さんが結婚した三留嘉之さんも、池辺村の出身。小学校の校長などを経て、明治39(1906)年に夫婦で横浜相生町に三留義塾を開いた。

生物画で有名な熊田千佳慕さんが、「隣が三留義塾という有名な学校で、僕もあそこに入りたくて仕方なかった。夜は英語を教えていました」と横浜時代を回想している。(平成13(2001)年の「有鄰」より)

福聚院の境内にある「三留先生の碑」は、昭和15(1940)年 「三留先生頌徳会建」とあるから、影響を受けた生徒たちが先生の死後すぐに建立したと思われる。

建立から80年も経っている今は、字が読みづらい。これは貞さんの孫の三留正子さんが大事に保存してあった写真をお借りした。
紙面の都合で一部だけの掲載。

三留家を継いでいる三留正子さんを訪ねた。「この先に家があるとは思わなかった」と秋山さんと私がつぶやくほど竹林や大木に囲まれている。中原街道から数分しか離れていないのだが、池辺町にはこんな閑静な場所が残っている。三留義塾創始者の実家でもあり、貞さんが100歳で亡くなるまで住んでいた場所だ。

正子さんは、祖母・貞さんと15年以上一緒に暮らした。だから、曾祖母・よしさんのことも間接的によく聞いていたという。

「祖母は日本語より英語が出てくるほどで、アメリカ暮らしの伯母(貞さんの長女)が来た時の2人の会話は、私には分かりませんでしたよ。録音でもしておけばよかったんですけど。アメリカの伯母からは洋服などを送ってもらいました」

「祖母がこの家に来たのは80歳を過ぎていましたが、聖書や本をよく読んでいましたよ。時には草むしりなどもしていましたけど。」

「三留義塾の生徒は偉くなった人が多いのですが、この方たちも遊びに来てました」

「牧野家に行くと、ヘボンさんが日本を去る時によしさんに残していった物もたくさんありました。ヘボンさんのベッドもあり、父はベッドに寝っ転がって遊んだと言ってました」



広大な庭や畑を背に話してくれた正子さん
はきはきしてお元気だ


三留一家と子ども達。撮影年が分からないが、子どもはもっといたようだ 

よしさんが亡くなった昭和5年には生まれていなかった正子さんだが、根掘り葉掘りの質問に嫌な顔もせずに、相手になってくださった。

よしさんに関係ある小泉家、牧野家、三留家は、すべて今の池辺町に代々続いている。とはいえ、なかなか子孫と連絡がつかったので、正子さんに会えて嬉しかった。

江戸城の大奥から、英語だけが通じる世界に飛び込んだよしさん。歴史にもまれながらも、しなやかに生き抜いた人生は、満足のいくものだったにちがいない。  (2020年11月訪問 HARUKO記)


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