「ニュータウンのことなら何でも知っている方だから、取材してほしい」とリクエストがあり、川手昭二さん(86歳)を3人で訪問してきた。

私は40年も前から、川手さんを知っている。そのころ住民に配られていたニュータウン情報で、いつもお名前を目にしていた。でも、会って話をするのは初めてだ。

午前10時に始まったインタビューが終わったのは、午後2時過ぎ。食事もとらずお茶も飲まず、なんと4時間以上かかってしまった。

その間、川手さんはこの日のために新しく用意したレジュメをもとに、よどみなく話してくださった。私たち3人は、年齢を感じさせないクリアな語り口と内容に引き込まれ、感嘆と感動の4時間を過ごした。

「もっともっとお話を聞きたい」の気持ちを抑えて、「また次の機会に、続きを聞かせてください」と、さらなる取材をおねだりしたほどだ。


 港北ニュータウン生みの親


川手さんは、東京大学の大学院を終了後、設立したばかりの日本住宅公団(今の都市再生機構。以下「公団」と記す)に入った。1956年、高度成長が始まり、日本全体が希望に満ちていた頃だ。

草創期の公団には、関東大震災や戦後の復興に携わった人や、ダム工事や都市計画の専門家が揃っていた。「刺激も受けましたし、鍛えられました。当時の公団は”すべての国民が快適な住環境を持てるように”という哲学を持っていたんですよ」と川手さん。

その語り口から、まだ20代だった川手さんや職場の熱気が伝わってくる。草創期の若き群像を想像しただけで、ワクワクする。プロジェクトXばりだ。

多摩ニュータウンに関わった後に、1967(昭和42)年、港北ニュータウン建設のために首都圏本部に異動。1969(昭和44)年、横浜線中山駅前の銀行を借りた開発事務所で、開発事業の準備に取り掛かった。

今や若者に大人気の港北ニュータウンは、44年前に中山で産声をあげたのである。


左写真は、産声から約10年後1978年に、すみれが丘方面からの撮影。東急電鉄が開発したすみれが丘は完成しているが、港北ニュータウンのほとんどは、まだ手つかずだ。写真は都筑図書館の「丘のヨコハマ写真館」より。提供者は、都市再生機構。


 飛鳥田市長のマニフェスト


飛鳥田市長(1915〜1990)をご存知だろうか。衆議院議員や横浜市長を精力的にこなした政治家だ。2期目の市長選で、6大事業で都市の骨格をつくるという夢のようなマニフェストをかかげ、戦後第1号のマニフェスト選挙に勝利した。

1965(昭和40)年に、市長は6大事業を発表。このときの新聞を見たいので、都筑図書館で探してもらった。神奈川新聞のマイクロフィルムが中央図書館に保存してあり、記事を読むことができた。

昭和40年2月26日の朝刊には、つぎのような見出しの記事が載っていた。
飛鳥田市長 将来の都市構想説明」「きのうの市会全員協議会で」

夢物語としてとらえる人も多かったと聞くが、50年近くたった今ほとんどが完成している。6大事業は、次のように大別している。

1、横浜中心部の強化(横浜駅と関内の連携。みなとみらい21の造成)
2、富岡・金沢地区の埋め立て(中心部から移転する工場の受け入れ)
3、ベイブリッジ建設(国際港都のシンボル)
4、高速道路建設(環状放射道路の整備)
5、地下鉄の整備
6、港北ニュータウン建設

マニフェスト6を実現するために、港北ニュータウン建設部が、横浜市の組織として登場した。 私たちが住むニュータウンは、飛鳥田市長とブレーンの田村明氏が作り上げた構想がもとになっている。

構想だけでは、物事は進まない。実現は、横浜市と公団と地元の協議会の3の協力があったればこそだ。3者の協力を表すモニュメントが、ニュータウン完成後に中央公園の丘の上に作られたほど、3者は一体になって動いた(左)。

この環をよく見ると、弧は3つに分かれている。この3つは、横浜市・公団・地元の協議会を表している。単なるオブジェだと思っていたが、開発の理念が込められている事を、初めて知った。下のプレートには、細かい字で開発のいきさつが刻んである。



 住民の声が夢の樹に


開発にあたっていちばん重視されたのは、住民参加である。住民の意思を尊重する考えは、飛鳥田市長の信念であった。理念として掲げただけでなく、実際にたくさんの住民が関わった。

住民の声が反映されていて、しかも理念を持ったニュータウンは、後にも先にもここだけなんです。その意味でも港北ニュータウンは世界に誇れる街です」

「ところで、住民は具体的にどのようにして参加したのでしょうか」

ニュータウン開発対策協議会が作られ、4地区(中川・新田・都田・山内)の委員長も決まりました。その下に、協議会のテーマを考え出し、組織に根回しをし、地元の意見を取りまとめる、若い3人のリーダーがいました。農地改革で指導的役割をした4人の委員長から信頼されている人たちでした。このピラミッド型の組織があったからこそ、ニュータウンの理念がすみずみまで浸透したと思いますよ。やがて、新住民が組織する宅地会の意見も吸い上げました」

「たくさんの住民の意見をまとめるのは、大変だったでしょうね」

「本屋で、KJ法の本を偶然手にしたんです。これこそ住民の声を集約できると思いました。対策協議会などで、1人1人がこんな街にしたい・・とつぶやくんですよ。1人の発言も無視してはならないのがKJ法です。そのつぶやきをすべてカードにして、大きな紙にはり付けました。開発目標の夢の樹が出来上がったのです。それを集約した結果、新しい都市像のグリーンマトリックスが出来ました」

「グリーンマトリックスはよく聞く言葉ですが、単に公園や緑道を指しているわけではないんですね」

「緑道などの総称のように間違って使っている人もいますが、マトリックスはもともと数学で使う「行列」です。緑道・幅広歩行者専用道路・コミュニティ道路を組み合わせて、ミニマックスを実現する住宅市街地システムをグリーンマトリックスと名づけたんです」

左は、グリーンマトリックスについて、図を描きながら分かりやすく説明してくれた川手さん。



街路でも安心して遊べる街


グリーンマトリックスに基づいた街づくりは、主に次の3つに要約される。

1、思い出を積み重ねる街

  ○ 通過交通を排除し、「コミュニティ道路」を作り、家の前の道路で安心して遊べる街
  ○ 保全された社寺や屋敷林を借景とする緑道を、家族で散歩できる街
 
  こうすることで、後で越してきた新住民も社寺の祭りに参加し、緑道や公園で遊んだ思い出を積み重ねる


2、自動車に依存しない街
 

  自動車に頼る社会になると、公共輸送が衰えて、老人や弱者が住みづらい街になる恐れがある
  そうならないように、バスが運行しやすい幹線道路計画とバス停と住宅との距離が5分以内になる歩行者路を
  張り巡らした細道路計画が必要になる


3、週末を自宅で楽しめる街

  休日は家族で緑道(全体では13キロメートル)を散歩し、歩行者専用道路を歩いて駅前に行く
  そこにはレストランも映画館もショッピングセンターもある

川手さんから話を聞いた後に、あらためて歩き回ってみると、「なるほどなあ」と思う箇所がたくさんある。車止めがあちこちにあり、初めて訪れた人は、車が通り抜けできないことに戸惑うかもしれない。でも、ここには、子どもがキャッチボールをし、大人がおしゃべりに興じる空間がある(下の写真の左)。

ニュータウンの中心・地下鉄「センター南」から5分ほどの所に、杉山神社がある。 平安時代の延喜式に「都筑郡唯一の式内社」と載っているほどの由緒ある神社だ。旧住民ばかりでなく、若い家族連れも初参りや祭りに参加していると聞いた。こうして、子どもたちにも、思い出が積み重なっていくだろう(下の写真の中)。

もうひとつの例として牛久保小学校をあげたい。この学校は、公園と緑道と歩行者専用道路で囲まれている。校庭が狭いので、公園や緑道をまるで校庭のように使っている。運動会の時には弁当を公園で食べていた。小学生が緑道を走っている姿を見たこともある。このように、学校をはみ出して使っている。これぞ、グリーンマトリックスシステムの真骨頂だ(下の写真の右)。


車が簡単に入り込めないように、
車止めがあちこちにある。
道路が、子どもが遊んだり、
大人がおしゃべり出来る
コミュニティ道路になっている。


区内だけで6社の杉山神社がある。
ここは茅ヶ崎の杉山神社。

新住民と思われる若い家族連れも
祭りに参加し、正月の初参りもしている。


牛久保小学校は
緑道と公園と歩行者専用道路に
囲まれている。
小学生も親も、校庭をはみ出して
自由に使っている。



 都筑市を作りたい!!


ところで、上の3つの理念はきちんと守られているのだろうか。私が見ても「あれ!ここに車を通してもいいの」と思う場所がいくつかある。

川手さんは、理念が崩れつつあることを非常に心配している。

商業ビルの利便性のためとはいえ、車が入り込めなかった道路に車を通している。小学校が予定通り開校されなかったことで、児童の安全性が守られていない。地主が私有している緑地を手放すことで緑が減る・・などなど。

小中学校を例にとると、小学校は600メートル以内、中学校は800メートル以内で通えるように、小学校2校と中学校1校をセットで計画した。左地図(区役所作成)の茅ヶ崎小、茅ヶ崎東小、茅ヶ崎中は計画通りだ。でも他の校区では、開校されなかった学校がかなりあり、子ども達の安全が保たれているとは言えない。

ニュータウンの理念に賛同して共に進んできた地主も、次の代になると、かつてのヒエラルヒーが崩れている。緑地や農地の売却を止める手段もないそうだ。

「崩れゆくニュータウンをなんとかして止めねばなりません。そのための1つの案として都筑市を作りたいですねえ。そうして市民参加の都市計画マスタープランを作ってみたいです」と、熱く語る。

思いもよらなかった都筑市だが、出来上がったらどんなにかステキだろう。人口は20万人を超えているし、さらに増える予測がある、インフラも揃っている、文化施設も充実してきた。「市」の条件は、揃っている。


 新しいグリーンマトリックス


川手さんは、新しいグリーンマトリックス計画を考え始めている。横浜市が 2007(平成19)年に決めた「水と緑の基本計画」に連動したものだ。早淵川から、鶴見川まで、自動車公害から隔離された散歩道を張り巡らす新グリーンマトリックス。

新しいグリーンマトリックスの概念図に、「川和宿・佐江戸宿・郡役場があって、寺社の歳時記が残されている農業・住宅混合集落地区」という一文があった。都筑区の北部に住んでいる私は、最南端にある川和宿周辺を歩いたことがない。

川手さんの思いに少しでも近づきたいので、川和宿周辺を歩いてみた。グリーンラインの「川和町駅」からわずか5分のところに、鎌倉街道「中の道」の街道が残っていた。川和小学校の裏手、すぐ側に谷本川が流れている一画。戦国時代から続いている旧家・前田家もあるし、今でも屋号で呼ぶ家並みも残ってる。ここが新しいグリーンマトリックスに組み込まれて良かった。川和宿の名残を下の写真で感じて欲しい。

 
道端にひっそりと
庚申塔と道神祠が
残っている。


街道筋には
このような風格ある家が
点在している。

 
川和宿の氏神様
天王社




新しいグリーンマトリックスの概念やニュータウンの未来を語るとき、都筑市誕生の夢を語るときの川手さんは、過去を振り返るときより一層オーラがある。そんな川手さんに「ニュータウン完成後も都筑区に住み続けてくださって、ありがとうございます」と思わず口にした。

4時間以上に及んだインタビューのすべてを、書くスペースがない。交流ステーションでは、お年寄りから子供、旧住民や新住民、いろいろな層の人から聞き書きして「50年後のニュータウンの現実」の特集を組みたいと考えている。
                                            
 (2013年5月訪問 HARUKO記)
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