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グランさんは、1845年デンマーク生れ。明治13<1880>年に、開港したばかりの活気あふれる横浜に来日した。最初は横浜の居留地に住んでいたが、奥さんの串田ヨシさんが池辺出身ということもあり、30年以上を池辺で過ごし、都筑郡都田村池辺で生を終えた。 亡くなったのは昭和2<1927>年だから、当時としてはご長寿。最近まで、池辺の長王寺にご夫妻の墓とお嬢さん夫妻の墓があったが、「日本には縁者がいなくなったので」と墓じまいをなさったと聞いた。 奥さんの出身地というだけでなく、富士山が見え、里山があり狩りもできる自然豊かなこの地を心から愛し、30年以上を過ごした。 今でこそ外国人と日本人の結婚は珍しくないが、明治時代の農村地帯で彼らが受け入れられたのは、グラン夫妻の人柄にもよるだろうが、この地を提供してくれた地主の横溝さんの力が大きかったと思われる。 写真は庭でくつろぐグランさん。屋根の上に見えるのは、今回の主題であるエクリプスという型の風車。
池辺には今でも串田姓が多い。最初は奥さんの串田ヨシさんの親戚がすぐ見つかると思い、串田と名のつく商店などを回ってみたが、ヨシさんの名前は聞いたことがないという方ばかり。今は個人情報がきびしく、一昔前ならあった町内会名簿もないので、一軒一軒聞きまわることも出来ない。 数か月前に「鴨居」(緑区)に時計屋をしていた串田さんがいる。そばには串田姓のお墓もたくさんある。何か分かるかも知れない」とつづき交流ステーションに情報を寄せてくださった方がいた。 連絡をとってみたが、はきはきした奥さんは「確かに串田姓のお墓はたくさんありますよ。でも外人と結婚した人の話など聞いたこともありません。この辺りには郷土の歴史に詳しい人もいないし」ということだった。
去年の10月から今年2025年9月末(予定)まで、フェリス女学院歴史資料館で、「フェリスの丘の風車」という特別展を開いている。 「グラン邸の風車がフェリスの赤い風車とは別物だと分かりました。ご覧になってください」と、松尾剛史さんからメールが届いたので、行ってみた。松尾さんは、「都筑にゆかりの”ひと”6回のクリスチャン・グラン」の記事を読んでくださった時からのご縁である。 当時のフェリス女学院の生徒の多くは寄宿生活をしていたが、衛生状態が悪い水でコレラで亡くなる生徒がたくさんいた。もちろんフェリス女学院に限ったことではなく、明治19<1886>年頃、横浜や全国にコレラが蔓延し死亡率も高かったという。 胸を痛めた校長先生が地下水を汲み上げる風車をアメリカから取り寄せた。日本人には風車といえばオランダのイメージがあるが、19世紀のアメリカで、画期的な揚水風車が発明された。特許をとったのが、ダニエル・ハラディさん。全世界に輸出するほどの巨大産業になった。 詳細は、フェリス女学院歴史資料館紀要 あゆみ73号の『フェリスの赤い風車再現の試み」ー松尾剛史ー』にある。 コレラ患者は全国にたくさんいたのに、高価だったと思われる風車をアメリカから取り寄せた校長先生の生徒に対する慈愛を感じずにはいられない。風車の取り付けを依頼されたのが、造船所を経営していたグランさんである。 当時在学していた相馬黒光さん(中村屋創設者の妻)が、自伝でフェリスの赤い風車のことを書いている。 「・・水は風車によって深井戸から高い所の大タンクに吸い上げられ、その風車、タンク、校舎の壁、ことごとく赤一色に塗りこめられて・・」 風車が設置されたのは、明治21<1888>年3月。赤一色の風車と校舎は、しゃれた建物が多い居留地の中でもひときわ目立ったにちがいない。 ところが、12年後の明治33<1900>年9月、猛烈な台風が襲い風車は壊滅的な被害を受けて落下。これ以後フェリス女学院に風車が回ることはなかった。 ゆかりの”ひと”6回の記事の間違いは上記の青字の部分である。詳細は次の項で記す。 フェリス女学院の赤い風車の写真は不鮮明ながら見ていたが、著作権の問題で、つづき交流ステーションで借りるには荷が重すぎた。 開催中の「フェリスの丘の風車」の展示で、一級建築士・構造設計一級建築士の松尾剛史さんが詳細な調査に基づいて制作したハラディ風車模型を見る事ができる。HPへの写真掲載は許可されなかったので、赤い風車の模型を見たい方は、資料館に足を運んで欲しい。 こんな洒落た赤い風車が今でもフェリスの丘で回っていたら、みなと横浜の名所になるだろう。 赤い風車は1900年の台風で倒壊したが、それを修理して、グランさんが池辺の自宅に設置したというのが今までの通説だった。 フェリスの赤い風車もグラン邸の風車も写真では見ているが、クリアでないうえに、機械に疎い筆者には、2つの風車の違いなど疑ったこともなかった。ところが、2つの風車は型も違う別物だったのだ。
赤い風車が台風で壊れ、その後池辺のグランさんの家で活用されたという通説は、松尾さんはじめ研究者の方によって、間違いだと分かった。写真に残っているフェリスの風車と、これまた写真と絵しかないグラン邸の風車をあらゆる方向から検証した結果である。 結論から言うと、赤い風車のハラディ・スタンダードは、1888年から1897年の台風で壊れるまで使われた。すぐエクリプスという風車が設置された。エクリプスは、ハラディよりも自己制御機構がシンプルだった。 ところが第2の風車も1900年の台風で壊れてしまった。2度も台風の被害にあって再建をあきらめたのか、コレラの脅威が減ったのか、フェリスの丘に3つ目の風車が回ることはなかった。2度目の台風で破損したエクリプス風車を修繕・改良して自宅で使っていたのが、クリスチャン・グランさんである。技術者だった彼には、心躍る作業だったに違いない。 ハラディ風車はアメリカの技術者ダニエル・ハラディによって、エクリプス風車はアメリカの宣教師レナード・ウィラーによって作られた。
松尾さんが制作した白いエクリプス風車の模型も、資料館に展示されているが、これもHPへの掲載は出来ないので、ご覧になりたい方は資料館へ。詳細な説明も読むことが出来る。
グランさんが、1900年の台風で壊れたフェリスの風車を引き取って長いこと使っていたことは、写真や村人が書いた思い出や佐藤春夫作の「西班牙犬」を読むと明らかだ。1番目の風車ではなく2番目の風車だった事が明かになった今でも、都筑の丘に風車が回る異人館があった事実は消えない。 筆者は、グランさんご夫妻に直接会った人にはお会いしたことがない。でも横浜市にも入っていなかった都筑郡都田村池辺の丘の上で風車は回っていた。庭にはアヒルや鶏が放し飼いになっている。ガラス張りの家。「桃源郷のような一画だったのではないか」と想像している。 6回には載せてない写真を、松尾さんから「お使いください」と届いたのでどうぞ。
(2025年1月 HARUKO記) |