3年になろうとしているあの日以来、ずっと私の心に住み着いて、忘れたつもりでいても、ときどき不意にやってきては「何やってるの!」と叱咤される。

地震、津波、福島、原発、放射能・・・・。

日本人はきっと、そうじゃないだろうか。あの時の、悪夢のような大災害のテレビの画面を見た者は、忘れるはずがない、と思う。

その中でも飯舘村は高線量の放射能汚染ながら、避難が遅れた特別な地域として再三マスコミに取り上げられる。

その飯舘村に藤井さんが?!村の職員に?知って驚いた。

私は、都筑区誕生の前年から、生涯教育学級を3年間運営することになったが、社会教育主事の藤井さんが声を掛けてくれたからだった。(私はそれがきっかけで地域活動にのめり込み、家の中に落ち着けないヘンな?人生を送ることになった・・・。)

その飯舘村は、大都市横浜とは真逆の自治体だった。6000人足らずの人口ながら、20の集落単位を行政区として、予算(10年間で1000万円)も与えられた自治権があったのだそうだ。そのほかにもアイディアに富んだ村の事業の数々がすごい!(このことは別の機会に書かれると思う。)

その村の、畑が、田んぼが、山が、川が、秋の深まりの中に口を閉ざして静まりかえっている。車で走りながら藤井さんは「ああ。こんなに草がぼうぼうで。」とたびたび大きくため息をつく。「すみずみまで手入れが行き届いていたんだよ。」
帰りに、2011年の9月には福島駅のそばに再開したという焙煎コーヒーの「椏久里」に立ち寄って、村が実は一番に力を入れていたのは「人づくり」だったのだと納得した。

すばらしく元気で魅力的な飯舘村の店長さんと従業員さん達。コーヒーもケーキ(左)もとびっきり美味しく、居心地の良いことと言ったら、ちょっと横浜にはない。

またこの夏、我が家にニセコから「イイタテベイク」が届いた。飯舘のオリジナル品種が、北海道の有機野菜農家の元で育っているのだ。私の手元にある、2011年4月11日刊行の『までいの力』の中には、品種改良に取り組んだジャガイモ研究会の女性の、すばらしい笑顔がある。

飯舘村の人達はどこにいても、どのような状況でも、きっと創意工夫をして、生き生きと暮らし続けると思う。藤井さんは、そんな人々に寄り添い続けるに違いないと思った。

 
                                                              (eba)



見たところ何一つ問題がなさそうなのに、ヒトだけがいない風景の不思議。
瓦礫やヘドロと違い、見えないものを取り除くという作業の困難。
実情とかみ合っていない国の対策と予算の使われ方の壁。

“世界で最も美しい村”は、今、“世界で最も難しい村”として、だれもが経験したことのない困難と向き合っていました。

けれど。
“今、どこに暮らしているとしても、村人ひとりひとりの幸せを目指す”というスタンスを変えない村の村人は、たとえ今、土地が失われていても、nowhere(行き場がない)なんかじゃなかった。振り返り見れば、私のほうが、ずっとnowhereでした。

震災前は、高齢化+過疎化+産業の空洞化というマイナスを、逆に力にして、飯館はプラスに変えてきました。
今も、これほどの状況にありながら、どこかユーモアを忘れず、飯館はけっして諦めていません。

学ぶこと、勇気づけられることがたくさんある。
飯館スタイル、まぶしいです。

                                                           (singbooboo)
 


 

私が飯館村に行って感じたことは、「人は多くの人々との繋がりを持って生活しているのだ。」ということである。

 市民活動のイベントで、都筑区誕生にかかわった方が飯館村の復興に従事されていることを知った。

そして交ステの繋がりの中からこの方を通して住む人のいなくなった寒村を知り、五感で知ることの出来ない
放射能の恐ろしさをひしひしと感じた。

70年あまり前の遠い過去に起こった、すべてを破壊尽くした原爆の放射能の恐ろしさは知識として知っていたが、今また、人間の英知は自然の力でもろくも崩れ去り、何一つ破壊することなく小さな村の人々の生活を奪ったのだ。

復興の名の元に、住む人の無い家を、耕す事の無い田畑を、そして自然を変えようとしている。


荒れ放題の田 

 
閉鎖された牛舎

 
シャッターが閉まった商店

原子力の利用は人間の力の及ばない自然への挑みであり、その結果としてもたらされた放射能も、皮肉なことにまた自然とも言えるであろう。

この村で暮らしていた人々は、我々とは違い、自然を主なる糧として生きていたのだ。

まして原子力発電の恩恵には与れなかったのではなかろうか。

しかし、人間の欲望、言い換えれば向上心と文明のあくなき発展の元に、不条理にもその代償は豊かな自然と共に生活していた人々に支払われたのだ。

藤井さんは言っていた。

「何とかしたい、どうにかしたいと、もがいている人たちはまだ大丈夫だが、問題はあきらめてしまった人、どうしようなく無気力になった人だ・・・。年寄りは何時までも待てない、白木の箱に入ってだけは戻りたくない」と。

飯館村に手伝いにやってきた中央官庁の方々が帰る時に必ず言う言葉があるという。「現場に初めて出ました。この経験を生かしてこれからもがんばります」

藤井さんは「小さな村役場に出来る事はほとんど無い。役場の役割は住民の思いをくみ上げ、整理してまとめ、何を如何すれば良いかを具体的に中央へ知らせるのができる事だ。」と言っていた。

そして私たちにも言った。「飯館村の産物を買ってください。物が売れれば産業が成り立ち村民が生活できる。そうすれば人々に活気が出て未来への希望が生まれる。村のこれからが描ける」

 人は気づかぬうちに多くの人々との繋がりを持って生きている。繋がりの向こうに見えたものがある時、私たちは何をすれば良いのだろうか。

                                                          (ココナッツ)



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