荒井さん横浜を代表する観光地でありオフィス街でもある「みなとみらい21」の名づけ親、荒井眞一郎さん(62歳)を訪問してきた。荒井さんは現役で働いているのに、地域活動にも関わっている。会の代表もいくつか引き受けている。だから荒井さんの名前は知っていたが、「みなとみらい21」の命名者だと耳にしたのは最近だ。

身近にこんな素晴らしい人がいる。応募の動機や選定のいきさつを聞いてみたいと取材をお願いした。名称が決まったのは昭和56(1981)年で、34年も前になる。でも昨日のことのように覚えていて、びっくりした。他にもたくさんの話を聞いてきたので、おすそ分けしたい。

猛暑日の午後1時半が約束だったが「暑いのでもうちょっと遅い時間にしますか」と気遣いの電話をくださった。当初の予定通りに始まったインタビューは3時間近くになったが、気遣いと話の面白さのおかげで、猛暑も吹き飛んでしまった。


みなとみらい21の命名には、建築屋の思考が役だった 


以前「ひと訪問川手昭二さん」の項で、当時の飛鳥田市長が提案した「6大事業」について触れた。6大事業の1つ
臨海部開発は、三菱重工横浜造船所移転後にはじまった。再開発事業名を公募。たくさんの応募者の中から荒井さんの「みなとみらい21」が選ばれた。

賞状当時の細郷市長から手渡された賞状(左)。ちなみに副賞は10万円。

「どうして応募する気になったのですか」

「私が生まれたのは鶴見区。小学校から高校までずっと横浜市立でした。山下公園や埠頭に通い、大桟橋で移民船の出港などを見ていたものです。その横浜が再開発計画の愛称を募集している。横浜臨海部に縁のある僕が応募しないでどうするという気持ちになりました」

「公募があった時は六本木の防衛施設庁に勤めていたので、通勤電車の中で過去と未来の横浜像を何度もイメージしました。浮かんできたのが横浜といえば「みなと」、未来都市、21世紀。この3つをただ並べただけですよ」と謙遜する。

「当時は神戸のポートアイランドなど、カタカナが流行っていたのですが、カタカナは嫌だったのです。流行語を使わないで本質を突くのが、ネーミングのコツです。僕は建築屋なので、建物を造る時にはイメージやコンセプトを練に練るんです。その思考方法が役に立ったのかもしれません」と付け加えた。

各地(帯広・札幌・大阪・沖縄)に転勤が多かったが、2003年から3年間は、横浜防衛施設局の部長として、「みなとみらい21」を望む合同庁舎の10階に勤務した。「名付けた街が発展しているのを見て、気持ち良かったですよ」


 柳原良平さんのおかげ


「アンクルトリス」のデザインで有名なイラストレーターの柳原良平さんが、『良平のわが人生 』という本の中で、「みなとみらい21」に決まった経緯を書いている。要旨を抜粋してみる。

1ヶ月の応募期間で、2292点もの応募があった。ニックネームの選考委員は柳原良平さんはじめ、コラムニストの青木雨彦さん、作詞家の阿木耀子さん、有隣堂社長、神奈川新聞編集局長など9人。2000点以上から選ぶのは大変だろうと、役所の担当者が96点を荒ら選びしていた。応募数が多かったのは、「ポートタウン」「ハマポート」「レインボー」「ポートシティ」「ニューポート」など。

柳原さんのサイン96点のリストに「みなとみらい21」は入っていなかったが、荒ら選びに漏れた中から柳原良平さんが拾いだした。最終的に、「赤い靴シティ」と「みなとみらい21」に絞られ、委員の投票で「みなとみらい21」に決まった。

委員の中で「みなとみらい21」を拾い出したのは柳原良平さんだけだったという。もし彼がいなければ、この名称になることもなかったし、荒井さんが命名者になることもなかった。不思議なものだ。

「2004年に、柳原良平さんの個展が関内の画廊で開かれたので見に行きました。初めてお会いしましたが、柳原さんも喜んでくださいました。その後お付き合いがあり、サイン(左)入りの『良平のわが人生 』を贈ってくれました」と荒井さん。

インタビューの時は、柳原さんはお元気だった。ところが、その時から1ヶ月たらずの8月17日に、横浜の病院でお亡くなりになった。


市内の地下鉄すべての命名者 


路線図「実は地下鉄ブルーラインとグリーンラインの命名者も僕なんです。こちらは選定の様子を公表していないので詳しい数字は分かりませんが、同じネーミングでの応募者が何人かいたと聞きました。ブルーラインは、港や青い海をイメージしたもの。グリーンラインは、緑豊かな丘の手をイメージしました」

左図は都筑区近辺のブルーラインとグリーンライン路線図。(フリー画像)

「応募するときに、小さな子どもや外国人でも分かるように駅構内の床にグリーンとブルーの大きな矢印を付けることも要望しましたが、実現していません。そういえば、みなとみらい線も地下鉄です。これも僕の命名から生まれたようなものですから、市内の地下鉄すべての名付け親になるんです」

自分がネーミングした地区や地下鉄が、今もこれからも使われる。こんな幸せはめったにないと思う。


100歳以上生きますよ!!


横浜市中区の本町や日本大通りには、今も重厚な歴史的建造物が残っている。荒井さんが大学の建築学科を目指したのは、こんな建物を小さい頃から見ていたからだ。卒業後は「面白い仕事ができるよ」の教授の薦めで、防衛庁(当時)の建築技官になった。

防衛大学校防衛省時代のいちばんの思い出は、横須賀にある防衛大学校50周年記念事業の本部建物(左)や講堂の建築にたずさわったことだ。

「防衛大の卒業式は、時の総理大臣が必ず出席なさるのでテレビで見ていると思いますが、式の最後に卒業生が自分の帽子を高く投げ上げるんですよ。ここは風致地区なので、建物の高さが15メートルに制限されているんです。空間を確保するのに創意をめぐらせました」

「防衛大学校100周年の時に、僕も100歳。式典に元気で臨みたいので110歳を目標に生きますよ」と、100歳での式典出席がなんでもない事のように語った。


マンションが古くなると街が沈んでしまう


防衛省定年後は、マンションの維持管理をする管理会社で仕事をしている。

「キャリア官僚は関連業界に再就職する人が多いのですが、僕はそういうのは苦手。いつまでも建築の仕事に携わりたかったので、自分で職をみつけました」

「マンション群が古びてくると、街全体が沈んでしまいます。港北ニュータウンはマンションが多いので、特に維持が大事です。一軒家の住人よりも、各自が所有者意識を持ってもらわないと困るのです」

管理事務所「今手掛けているのは、8棟、403世帯が入るマンションの定期的な大規模修繕工事です。窓枠のシーリング、外壁、屋上の防水などやることはたくさんあります。建築の監理技術者としての業務のほか、居住者の24時間対応も担っています。『廊下灯が点かなくなった』『雨戸を開けていいか』『洗濯物を干していいか』などの電話がかかってきます。自分の時間がとられるのが少しつらいですね」と言いながらも、街の活性化、美化に一役買っている喜びが全身からあふれている。

左写真は、今メンテナンスをしているマンションの管理事務所。10ヵ月が工期なのでプレハブだ。


マラソンとオートバイと絵画 


荒井さんは昭和40年代からこの辺りを訪れていたが、都筑区に越してきたのは平成8年。都筑区民になって20年が経つ。

「市民は地域に貢献していくべきだと考えています。だから、転勤が少なくなった頃から地域活動を始めました。関わっているのは『NPO法人都筑里山倶楽部』と『水と緑の魅力アップ推進委員会』『都筑アーカイブクラブ』などです」

「ずいぶん活躍なさっていますね。仕事が休みの日は、地域活動で終わってしまいますね。ご自分の楽しみに割く時間はありますか」

「ありますよ。趣味のひとつはマラソンです。緑道を3周走ると約39キロメートルになるので、ほぼフルマラソンと同じ距離になります。今年の3月には佐倉マラソンを4時間弱で完走しました。8年前までは、オートバイで1日300キロメートルも走り回っていました。絵も大好き。転勤先や近場の風景をスケッチして、年賀状用のj版画にしています。実は、”都筑八景”を選んで版画にしたらどうかと勧めてくれる人がいるんです」

「あら!交流ステーションでもその構想を話し合っているところなんですよ。コラボできるといいですね」

10数枚の版画を見せてもらった。彫りの緻密さ、色のぼかし方、色の重ね方、刷り方などすべて完璧な作品に目を見張ってしまった。余白の関係で2枚しかお見せできないのが残念。

みなとみらい21 都筑民家園 
 
「みなとみらい21」が
21世紀を迎えたときの賀状
 
区民にはおなじみの都筑民家園
藁ぶきを表現するために版木を工夫した



お会いした瞬間からパワフルな方だと感じたが、インタビューを続けていくうちに益々その感が強くなってきた。今回は地域活動について話を聞く時間はなかったが、いつの日か「ひと訪問パート2」への登場をお願いしたいと思っている。       (2015年7月訪問 HARUKO記)

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