TOP はじめに 回り地蔵とは? そして今 アイ❤お地蔵さま
来歴
いつからお地蔵さまは回っていた?
今回確認できたうち、最も古い講中の記録は大正13年(1924)のもの。

だが背負い厨子の引き出しの裏に、嘉永3年戌(1850)8月と記されているから、回り地蔵の巡行は少なくとも160年以上前から続けられてきたと考えてよさそうだ。

驚いたことに、地元から出征した若者もおおぜい戦死した太平洋戦争のあいだですら、休むことはなかったという。なにしろ延命や子育てのお地蔵さまである。むしろ戦争中は、より深く信仰されたかもしれない。
 
 
回り地蔵記録帳  厨子年代

神さまがいっぱい
滝ヶ谷戸は中原街道沿いに広がっているが、その入口と出口を守るのが、第六天さまとお伊勢さまだ。逆に言えば、この二つの祠に挟まれた地区が滝ヶ谷戸ということになる。珍しい回り地蔵にばかり気をとられていたが、滝ヶ谷戸講中は、回り地蔵だけでなく、地域の守り神である第六天さまとお伊勢さまもお祀りしている。また、春と秋のお彼岸とお盆の年3回、全長3mもある大数珠を全員で繰りながら念仏を唱える念仏講や、農村の大事な行事である初午も続けてきた。

こうした行事を取り仕切るのが世話人。2人1組で担当し、毎年の初午の集まりで、次の年の世話人に引き継ぐのが常だった。

  
第六天さま  お伊勢さま 
↑第六天さま  ↑お伊勢さま

まず念仏講が問題になる

講中で行う行事のうち、まず念仏講が問題になった。念仏講は、持ち回りでどこかの家を“宿”(会場)として開催されていた。宿となる家は、全員が座れる広い座敷を作るために襖を外し、ときには障子の張り替えや畳の打ち直しもし、人数分の座布団や食器を整えたり、食事や飲み物をこしらえる。宿のその負担が重過ぎるというのである。時期ははっきりしないのだが、みなさんのお話を総合すると、おおむね21世紀になったころと思われる。
 
自宅での結婚式 
昭和30年代までの滝ヶ谷戸では、結婚式などを含め、自宅に大人数の人寄せをすることが当たり前だったそうだ。そういう場合、現実問題、したくをするのは一家の女である。主婦ひとりではとうてい回しきれない大役だが、親戚や隣近所の女性たちが、“おたがいさま”の気持ちで集まり、料理や配膳、片づけまで一緒に立ち働いたそうだ。

座敷で賑やかに食事をしたり飲んだりするのは男性。そして女性では長老格のおばあちゃんのみ。女性たちばかりが別室でクルクルと働く……と聞くと、「そりゃあヒドイ」と思ってしまうが、堅苦しい座敷にいるより、女同士で気の置けないおしゃべりをしながら、けっこう楽しい場でもあったという。
 
↑自宅での結婚式 昭和30年代の滝ヶ谷戸

だがそうした行事を外で行うようになって久しい現代の横浜市の住人には、念仏講のこのホスト役をこなすのは、たしかに大変そうだ。

こんな話を聞いた。
「念仏講が始まるのは、夕食後の時間でね。みなお腹がいっぱいだから、せっかく作った料理にほとんど箸がつけられないことも多かったんです。せめて喜んで食べてくれればいいけれど」

ふだんはごく質素な食事をしていた時代には、こうした行事のときのご馳走が楽しみだったというが、有り余る食べ物に囲まれている今では、せっかくの料理もまるごと残ってしまう。ホスト役の主婦には、快い疲労感でなく、徒労感が残るようになったということだ。

そこで食事はふるまわず、市販のお菓子とお茶のみに簡素化した。
 

次いで“宿”の制度を廃止して、会場を滝ヶ谷戸自治会館に固定した。みなの負担をよりいっそう軽くして、念仏講を続けやすくするための改革のはずだった。

ところが参加する人は、逆に少なくなってしまったという。
「前は『うちが宿をがんばってやったときに来てくれたから、別のお宅が宿をするときにも行こう』と思えたんですよ。でも公共の施設となると、そういう義理がなくなる。行っても行かなくても自由って気になるんですよ」

そして、そろそろこの行事は止めようという声が上がり、2012年秋のお彼岸を最後に、念仏講は行われなくなったそうだ。
 
滝ヶ谷戸自治会館
↑滝ヶ谷戸自治会館。講中の人は改築前の名称「滝ヶ谷戸倶楽部」から、今も「倶楽部」と呼ぶ

講中、解散する

人によって記憶がまちまちなのだが、おおむね2008年ごろ、櫛の歯が欠けるように講中を抜ける家が出てきた。当然、運ぶ距離が長くなる家が出て、回ってくる頻度も多くなる。担い手の年齢はおおむね70歳以上。昔はこともなく運べた厨子が、ずっしりと肩にのしかかる。心に負担を感じはじめると、身体の方でも、実際以上に重く感じたりするものだ。かくして「重くて難儀だ」という思いが、少しずつ声として発せられるようになってきた。

ところが、お地蔵さまそのものは片手で持てるほど軽いものだそうで、ならば厨子を軽い素材でコンパクトなものに変えてみてはどうか、もしくは背負い紐だけでもリュックサックのようなパッド入りの背負い紐に付け替えてはどうかという案も出された。だが、このままの形で守るからこそ価値があるという意見が出ると、提案はなんとなくうやむやになり、実現されることはなかった。

重いまま続けるには若い者に任せるほかないのだが、子どもたちの世代は、回り地蔵を自らの日常にするには、あまりにも別の現実を生きている。

さらに「申し訳ないが、もう無理だ」と世話人就任を辞退する家が出てくるに及んで、とうとう講中の解散が決まった。2013年1月のことだ。



回り地蔵から回らない地蔵へ

こうなると、問題はお地蔵さまをどうするか、である。各家の特等席である仏間に100年以上もお祀りしてきたお地蔵さまを、急に屋外に出すことにはためらいがある。それにほかでもない、お地蔵さまのことだ。自分が中心になって終わらせてしまうのを、畏れる気持ちも正直ある。そんなこんなで、講中解散は決まったのに事態はなかなか進まない。安住の地が定まるまで、お地蔵さまは消化試合のような巡行を続けることになった。

落としどころの難しいこの問題を、「じゃあ、俺がやろう」と最終的に預かったのは島村幸吉さん。池辺町の産土神である杉山神社の世話役を18年、そのうち9年は総代を務めた人物である。さらに集落の塞ノ神である第六天を、代々、守る家でもあり、屋号もずばり「第六天」。あまり地域の行事に関わらなかった両親に代わり、祖父からさまざまなことを受け継いだため、一世代前の古老から直々に教えを受けた、いわば地域のまとめ役だ。

最初の案として、自治会館に安置したいという希望を自治会総会に投げかけたものの、結果は否決。その理由は「政教分離の原則があるから、宗教的な事物を公共施設に持ち込むことはできない」ということだった。正論である。たとえそれが話し合われた自治会館の床の間に、杉山神社の掛け軸がドーンと懸かっていたにしても、だ。

かつては自治会=講中、すなわち滝ヶ谷戸のプロパーな住人30数軒だったから、組織は盤石の一枚岩だったが、開発が進んだ今、自治会構成員は160世帯をゆうに超える。
島村幸吉さん 

まさか自治会館に置けないとは思いもしなかった講中の人々は、衝撃を受けた。昔からたいせつにしてきたことの意味を、なぜわかってくれないのかと歯がゆい気持ちが募る。その一方で、地域が大きく変貌しはじめた初期のちょっとしたボタンの掛け違いが招いてしまった、自治会との目に見えない微妙な溝について、内心忸怩たる思いもある。
「新しく住み始めた人に、講中のことを説明はしなかったよ。わからないだろうし、説明なんかされちゃったら、逆に迷惑ってこともあるでしょう」

ともあれ、残された選択肢は二つ、新たにお堂を建てるか、地域の多くの家の菩提寺である福聚院に託すかである。だが菩提寺が福聚院でない家ではお参りがしにくく、不公平だという理由で、集落の入口を守る第六天の横に、新しいお堂を建てることが決まった。新堂建設の依頼を受けたのは、地域の寺社の建築も手掛ける池辺町の大工・森匠だ。お地蔵さまは7月3日に島村幸吉さんの家にたどり着き、お堂の完成を待つ間、島村家で篤くお祀りされた。そして7月下旬、檜造りの立派なお堂が完成した。 新堂建築中 
たいせつな厨子ごとお地蔵さまを新堂に安置したのは、7月29日。福聚院の齊藤清紀住職を招き、儀式が行われた。この日は朝から本格的な雨。30年に一度の異常気象といわれた2013年夏、水不足に苦しんだ滝ヶ谷戸の畑を、柔らかく降り続く雨が潤していった。農家を見守り続けてきたお地蔵さまからの、慈しみの雨のようだった。
新堂に納める