つづき歴史探訪
温泉と桃の綱島

桃の郷として全国に名を馳せた綱島産の桃「日月桃」「池谷家の門前」に建つブランドの記念碑 飯田家住宅長屋門、横浜市指定有形文化財。江戸時代後期の築と推定され屋敷全体が貴重な文化財

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【つづき歴史探訪サークル】 松村会長にサークルの概要を語ってもらった。
「歴史が好き」というメンバーが集まったサークルで、主に都筑区の歴史にある場所、鎌倉・江戸時代の古道、建造物や昔の産業などを探訪することを目的として、おおよそ2ヶ月ごとに行なうとのこと。

今回は、かっての「温泉の街・綱島」と綱島の特産品であった「日月桃」の創出者「池谷家」、横浜市指定有形文化財「飯田家住宅長屋門」を訪ね、ご当主より直々に代々伝わる話を聞かせていただいた。
最後に江戸時代に上野寛永寺の末寺として栄え、将軍家の庇護のもと家康・秀忠父子より贈られた梵鐘が存在する金蔵寺を訪ねた。

第8回つづき歴探は、当初の予定にない飯田家訪問まで出来て大満足で終えた。
  綱島温泉の歴史

 唯一温泉の名残をとどめる    綱島ラジウム温泉「東京園」

1926年東京横浜電鉄神奈川線が開通し、綱島温泉駅が開業した。駅前には温泉街ができたいへんな賑わいをみせた。1944年太平洋戦争が始まり、旅館業の廃止命令がだされ、温泉旅館は工場勤労者の宿泊施設となり、1944年10月20日綱島温泉駅が綱島駅に改称、温泉の名称と温泉街は消滅した。

戦時中火が消えた温泉街も、1945年太平洋戦争終結と共に、温泉街・芸者街として復活、観光や湯治目的の他に、東京の奥座敷と呼ばれ昭和30年代から40年代の最盛期には80軒もの温泉旅館がひしめいた。

かって、東京近郊の温泉地として賑わいをみせた綱島温泉街であったが、時代の変化と共に次第に衰退、1964年東海道新幹線が開通し、熱海や箱根、伊豆などへ短時間で行けるようになったことが衰退に拍車をかけた。最後まで残った横浜市教職員互助会「浜京」が2008年3月15日をもって閉鎖・解体されたのが、綱島温泉の終焉であった。

こんにち、綱島温泉の名残としては、綱島街道沿いにある日帰り入浴施設「綱島ラジウム温泉東京園」と銭湯「富士乃湯」がある。
 「ラジウム鉱泉井戸」跡
古文書によると、綱島や対岸の大曽根では井戸を掘ると「赤水」が出ることは知られていたようである。大正3年に水質分析の結果、ラジウム鉱泉であることがわかり、大正6年最初の温泉銭湯「永明館」が開業。

鉄道王・五島慶太が敷設した電鉄に「綱島温泉駅」を造り、直営の「ラジウム温泉浴場」を開場したのが、綱島温泉の始まりであった。
泉質はナトリウム-炭酸水素塩泉18℃。効用は神経痛、疲労回復、切り傷、火傷、慢性皮膚病など。湯色が濃褐色で通称黒湯と呼ばれた。

 左写真は、池谷家裏庭に今も残る「ラジウム鉱泉井戸」跡
 
  【「日月桃」と池谷家】


「日月桃」を開発し、綱島桃ブランドで全国にその名を馳せた、池谷家邸宅とその入口に建つ「日月桃記念碑」。広大な屋敷内に、戦後復活された「日月桃」の畑があり、6月末に収穫期を迎える。
谷家の母家は、安政4年(1857)築造ですでに152年を経ている広大な建物で、江戸時代は名主の上位、”大惣代”を務められた旧家である。そこに15代ご当主池谷光郎氏ご夫妻が住んでおられ、邸内をくまなく案内していただいた。
綱島は、明治の中期頃から桃の生産高で岡山と並ぶ二大生産地であった。この綱島桃の創始者は、祖父の池谷道太郎氏で、津田塾大学の創立者・津田梅子の父・津田仙の「学農舎」の紹介でアメリカから桃の苗木を取寄せ、また中国・天津からも種々苗木を輸入、試行錯誤を繰り返し、ようやく綱島の土壌と風土に最適の桃を開発し、「日月桃」と命名した。
この新品種「日月桃」は、東京・横浜の地の利と味の良さで、全国にその名は広まり、近郊農家で結成された綱島果樹園芸組合は、全盛期の大正13年には組合員91軒、桃畑面積約22町歩(22h)にも及んだ。
しかし、昭和13年6月台風による4日3晩降り続いた豪雨で、鶴見川が氾濫、桃畑は壊滅した。折からの軍国主義の台頭で穀物増産政策と相まって、綱島桃は衰退してゆき、ついに戦局の悪化と共に消滅した。
「日月桃」エキスで造られた地ビール。地元 某スーパーと某デパートで限定販売される。年3回醸造され直営レストランでも提供 販売宣伝用ポスター。年代順に左から、大正15年・昭和4年・昭和10年。昭和4年の絵だけ文字が右書となっているのが面白い 戦後復活した「日月桃」畑。今では池谷家の屋敷内の桃畑でのみ僅か十数本栽培されている。(23年4月末の桃畑)
池谷邸入口左側にある「芭蕉句碑」「あかあかと日はつれなくも秋の風」翁。芭蕉と親交があった祖父与四朗氏の句を並記してある 池谷家の正木戸江戸時代代官が屋敷を訪れる時出入りする専用木戸(門)。家族や一般庶民は別の出入り口を使用した。 明治時代初期に最高官庁として設置された新政府組織「太政官」からの通達の立て札。「太政官高札」という。(小学校生徒の教材用
     
 昔の厨房(台所)。かまど、大釜、せいろ(蒸器、など。都市ガス、プロパンガス等を使う前の台所用具。 (小学校生徒の教材用  鶴見川は暴れ川で、たびたび氾濫した。そのため裕福な家には、避難用の川舟を軒下に吊してあった。(小学校生徒の教材用 1945年5月29日米軍機B-29爆撃機による横浜大空襲で、市街地の大部分が廃墟と化した。B-29が落とした焼夷弾の残骸教材用

 【飯田家住宅長屋門】
横浜市指定有形文化財(建造物)  
飯 田 家 住 宅   指定年月日 平成6年11月1日
飯田家は旧北綱島村の旧家で、代々名主を勤め、荒地の開墾、農業の振興、鶴見川改修などに尽力された。
表門(長屋門)の建築年代については、確定する資料はないが部材の風触、技法から見て江戸時代後期と推定される。当家の屋敷は建築史的な価値を有する主屋と表門が揃い、その周囲に濠を廻らすなど、開拓名主としての土豪的屋敷構えを残しており、家屋敷全体が貴重な文化財となっている。(邸内は非公開)
  左写真は、飯田家長屋門木戸口より邸内を望む。
飯田家長屋門前の歴探参加者一行。外から長屋門を見るだけの予定であったが、邸内を見学させていただいたのはラッキーあった。屋根葺の茅は渡瀬遊水池の茅を用いる。 長屋門右側にある外濠の一部。
かってはこの濠が屋敷周り全部を廻っていた。南側の「綱島市民の森公園」から出る綺麗な湧水が流れている。
内側から見た長屋門桁行18.4m 梁間4.3m。茅葺寄棟造。正面中央が通路、向かって右側に出格子窓がつく門番部屋と納戸、左は高床式穀物倉平成7年解体修理された。
邸内庭の1部。正面奥の落葉した木は横浜市指定「古木銘木の「百日紅」の大木。他に指定古木銘木に「しだれ梅」が長屋門横にあり、藤の大木も丁度満開であった。 南側にある濠の一部、この左奥には、幕末から明治期にかけ、天然氷を作る濠があり、大綱橋際の氷室に貯蔵されていた。濠の南側は「綱島市民の森公園」 歴探一行に説明中の24代当主・飯田助知氏(中央)。当家は400年前から記録があり、祖父飯田久一は河合玉堂の弟子で俳句会等を催したりした今で言う文化人だった。

 【綱島古墳と金蔵寺】  
縄文時代海岸線は新羽、子机付近まで入込んでおり、当時綱島は鶴見川入江に浮かぶ小島であった。常緑樹が鬱そうと茂る綱島公園入口の案内看板。綱島街道に面する 芝笹に半ば埋れた「ちょうしん塚」石碑。元の地主池谷家では、古代の墓地として代々守っていたという。第二次大戦中は軍に接収され高射砲陣地が築かれていた。 綱島公園内にある「綱島古墳」案内板。古墳は平成元年5月発掘調査が行なわれ、墳丘の頂部から考古学的に貴重な遺物が多数出土した。平成元年12月市史跡に指定。
天台宗・清林山佛乗院金蔵寺平安朝末期・清和天皇の頃、天台宗第五代座主・智証(ちしょう)大師により創建された本尊は智証大師自作と伝えられる不動明王。 三代将軍・家光より広大な寺領を下賜されたという名刹。(現敷地面積2万坪・66000u)家康・秀忠が寄進し、綱吉が改鋳したという大鐘楼や、徳川家より拝領し歴代住職が使用したという駕籠なども残る。 日吉の地名は、金蔵寺裏にあった日吉権現にちなむといわれ、今も日吉権現の碑が現存する。本堂正面には江戸時代初期作で極彩色の織部灯籠と称するキリシタン灯籠がある。極彩色彫刻がある珍しい寺院。

  取材・作成: - shiba -  2011.7.1

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