ニュータウン工事がはじまった35年ほど前の都筑区は、かやぶき屋根の農家が点在する純農村地帯だった。もっとも、当時はまだ都筑区という区はなく、都筑区は1994(平成6)年に港北区の一部と緑区の一部から誕生した。

開発が進むにつれて、江戸時代から続く古い民家のほとんどは、新建材の住宅に生まれ変わった。しかし、江戸時代の面影を残す民家が、都筑区に3ヵ所残っている。今回は、この3ヵ所を訪問してきた。


関家は勝田村の名主と代官を兼ねていた 

国の重要文化財に指定されている関家住宅は、都筑区勝田町にある。最初に断っておかねばならないが、関家住宅は原則として非公開。22代当主の関恒三郎氏が、今も住んでいらっしゃる。

関家のご厚意のもと、横浜市教育委員会の主催で、年に1回ぐらい見学会が開かれる。見学会の日時は市の広報誌に載るが、申し込みが多い場合は抽選になる。

2007年12月1日の見学会に行ってきた。10時から3時までの間に、約200人の見学者があったという。

関家の書院と主屋左写真は、敷地内の高台にある四阿(あずまや)から写した書院と主屋。茅葺き屋根の重厚な民家と色づいた森を見ると、ここがニュータウンであることを、忘れそうだ。

教育委員会文化財課の今井さんが、グループ10数人を引き連れて、各部屋や敷地を回って説明してくださった。

都筑区の中でも、勝田の歴史は古い。鎌倉時代の1209年の文書に村名がある。1590年の豊臣秀吉の禁制文書にも、「かちた」とある。豊臣政権の1594年の検地帳には、「勝田郷」とある。

徳川家康が関東にお国入りしてから、明治維新まで、勝田は、御家人・久志本(くしもと)氏の領地だった。伊勢神宮の神官で医者でもあった久志本氏は、家康親子の病気を治した功で御家人に取り上げられた。

その勝田村で、代々名主を務めたのが関家だ。他の村の名主は世襲ではなく、2〜3代で変わった。名主の役が終わると、文書は襖の裏張りに使われたり燃やされて、残っていないことが多い。ところが、関家は世襲名主だったので、貴重な文書が6000〜7000点も残っている。

江戸時代の終わりには、名主だけでなく代官も兼ねた。江戸に住んでいる久志本氏と領民の橋渡し役が、代官である。近くの最乗寺には久志本夫妻の墓もある。勝田と久志本家の交流はいまだに続いていて、勝田の町内会館を建てたときに、久志本家の子孫を招待したという。


主屋も表門も書院も敷地も国の重要文化財 

1961(昭和36)年に横浜国立大学が行った調査で、関家は関東地方で最古級の住居だとわかった。主屋は、木材の加工痕や構造などから、17世紀前半の建築だと考えられている。

関家配置図1966(昭和41)年に主屋が、1978(昭和53)年には書院表門敷地が、国の重要文化財に指定された。

今井さんは「建物ばかりでなく、敷地まで指定されるのは非常にめずらしいんですよ」と、熱く語った。「宅地ばかりでなく、山林・畑・墳墓地も重要文化財です」と付け加えた。

左の配置図(教育委員会提供)は、敷地の一部にすぎない。全体では11,548.1平方メートルと、広い。

敷地の北側には、旧中原街道が通っている。中原街道は、東京の虎ノ門と平塚市の中原を結んでいた街道で、江戸時代初期は、東海道より整備されていた。徳川家康の江戸へのお国入りは、この中原街道を使った。

この辺りは、鷹狩りの場でもあったので、関家は、将軍の休憩所としても使われた。鷹狩り姿の将軍ご一行さまが立ち寄った時の様子を想像すると、楽しい。江戸城にいるときより、くつろいでいたに違いない。

関家長屋門 関家長屋門一部 乾してある豆
表門は茅葺き2階建ての長屋門。19世紀中頃の建築。明治24年に2階建てにした。 表門を近くから撮影。門とはいえ、脇の部屋は子供部屋などに使われた。 今も当主が生活している。豆がゴザに乾してあった。

書院 主屋 土間の天井
書院は十畳二間がある。18世紀前半の建築。将軍家から拝領した葵の紋入りの弁当箱も飾ってある。将軍家は鷹狩りのときに休憩した。 主屋は桁行10間、梁間5間で、他の古民家にくらべ一回り大きい。17世紀前半の建築 主屋の土間の天井。南関東の民家の特徴でもあるが、柱は小ぶり。大黒柱も上にいくほど細くなっている。


都筑民家園は旧長澤家住宅

都筑区大棚西にある「都筑民家園」の建物は、長澤家を解体保存したものだ。横浜市歴史博物館の野外施設のひとつとして、1996(平成8)年に公開された。国史跡の大塚・歳勝土遺跡と隣接している。

長澤家の旧所在地は、港北区牛久保町。江戸時代初期から住んでいた旧家で、元禄・文化・万延年間には組頭を、1741(享保元)年〜1778(安永)には名主を務めた。

民家の作り方の特徴から、18世紀中ごろの建築と推定されている。広間型形式で、土間に接して板張りのヒロマがある。土間境の柱は大黒柱ではない。馬屋と主屋が廊下でつながれていて、一つ屋根の下にある。1997(平成9)年に市指定文化財に指定された。

下の図は、長澤家の解体前の間取り図。横浜市指定・登録文化財編「横濱の文化財第5集」を、コピーさせてもらった。

解体前の長澤家


ヒロマ 民家園全景 ダイドコ(土間)
上の間取り図の「ヒロマ」。いろりがある。 都筑民家園全景。訪問したのが冬枯れの季節だったので寂しい写真になってしまった。 裏口から上の図の「ダイドコ(土間)」と庭を見る。


民家園(電話は594-1723)の開園は、9時から5時まで。特別な行事がない限り、自由に内部を見学できる。解体前とほとんど同じに復元しているので、江戸時代の民家を肌で感じることができる。農民の気分に浸ってゆっくり時を過ごすのも悪くない。ヒロマの囲炉裏に火が入っていたらラッキーだ。

蕎麦打ち教室・七夕祭り・お茶会・ひな祭り・ファッションショーなどのイベントが、たびたび開かれている。交流ステーションの地域活動紹介でも取り上げたが、民家園のHPに予定が載っている。


   せせらぎ公園古民家は旧内野家住宅 

3ヵ所目の訪問は、都筑区新栄町の「せせらぎ公園」の中にある古民家。内野家を解体復元したもの。内野家の旧住所は、緑区荏田町。江戸時代中期から後期にかけての建築と推定されている。広間型三ツ間取りで、土間と広間境の中央部にある背の低い板壁は、当時の横浜付近の民家独特ということだ。

民家以外に、1859(安政6)年建築の長屋門も移築されている。この長屋門は東京目黒の小杉家にあったが、当主が横浜と関わりがあったので、市に寄贈された。

内野家主屋と小杉家長屋門は、2000(平成12)年に市認定歴史的建造物に指定された。

下の図は、内野家の解体前の間取り図。「旧内野家住宅移築修理工事報告書」(住宅公団開発局発行)を、コピーさせてもらった。長澤家と同じように、馬屋と住まいが一つ屋根の下にあった。馬屋と味噌部屋は、復元したときに除いたので、この部分は今はない。

内野家の方は、今でも友人を連れて年に2回ぐらい遊びに来るという。住んでいた家が生まれ変わって、市民に喜ばれているのを見るのは、嬉しいだろう。

解体前の内野家

古民家園全景 内野家の土間 内野家の広間
古民家園の全景 上の間取り図の「土間」。竈や当時の農作業の道具がおいてある。 上の間取り図の「広間前室」。手入れの行き届いた板戸に正月飾りが似合う。

「古民家」(電話は592-6517)でも、蕎麦打ち教室、和菓子作り、和布を楽しむ会、ひな祭りなど地域に密着したイベントをしている。開園は9時から5時まで。休園は毎月第1木曜。

ここでの蕎麦打ち教室は、交流ステーションの地域活動で紹介している。古民家に隣接して、竹炭を焼く設備もある。ボランティアスタッフが焼いた竹炭と竹酢液は、評判がいい。

横浜市には古民家連絡会があり、古民家めぐりのスタンプラリーもしている。横浜市18区のうち、自由に見学できる古民家は、8戸しかない。そのうち、2戸が都筑区にある。年に1度公開される関家を入れると、3戸だ。

オシャレなショッピングビルが林立し、観覧車が回る街に、竹林や森に囲まれた古い民家がある。こんな潤いのある街に住んでいる都筑区民は幸せだなと、改めて感じた。しかも、都筑民家園は地下鉄「センター北」から徒歩5分、古民家も地下鉄「仲町台」から徒歩8分と交通の便がいい。このことは、民家園の岡本事務局長も、古民家の旭事務局長も強調なさっていた。
(2007年12月・2008年1月訪問 HARUKO記)

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