都筑の歴史さんぽ径

庶民の教育を支えた「佐江戸の寺子屋」

寺子屋の歴史的評価

寺子屋というものは近世から、近代初頭にかけて主に庶民の子供に読み・書きなどの初等教育を行った私設の教育機関です。その起源は室町時代後期(1500年)ほどにまでさかのぼるのですが、寺子屋の本格的な普及は江戸時代、特に後期にかけて数は増加しています。


この理由としては江戸時代では商業活動が盛んになり、そのことが資源の開発・財貨の増加・交通運輸の進歩を促進し、そして都市の住民さらには農民の労働や生活までも商業・貨幣経済に組み込まれてそのため契約書・帳簿・書類・手紙などから文字を見たり使用する場面が増えたために初等教育を行う施設への需要が増えたことが理由といえます。

寺子屋でどのようなことを教えているかは『読み・書き・そろばん』の三種類に大別でき、読み・書きを指導する寺子屋、それに加えてそろばんなどの算数を指導した寺子屋、その他のこと(習礼・画・茶・花・謡)も指導する寺子屋の3種類が存在しました。なかでも幕末にかけては『読み・書き・そろばん』の寺子屋が急増しました。

また寺子屋が一般に普及してきたのが江戸時代後期ということも考えると、江戸時代後期については一年あたり40〜50冊ほどの教科書が刊行されたとみなされ、当時の教育に対しての熱心な姿勢をうかがうことができます。
 
欧米諸国が100年ほどかかって築き上げた近代国家の基礎を、明治期の日本はたった30年で築いたことを考えると、その30年の間に国を支えた人々は江戸時代に寺子屋で教育を受け、また一般の労働者も寺子屋で教育を受けたために質も良質であり、そのことが明治期の成長を支えたと考えても不思議なことはないと思います。
 
こういう観点から考慮してみると、寺子屋は明治期、さらには今の小学校にも劣らないすばらしいものであったことがうかがえ、我が国の近代化に大いに貢献したといえます。

現存する佐江戸の寺子屋と小川金蔵 

 
  幕末の頃には、寺子屋教育の他に儒者が教えた漢学塾・国学塾などの私塾がありました。明治25年の「日本教育史資料」によると、明治初年に現在の横浜市域には98の寺子屋と4つの私塾があり、そのうちの一つが東方村にあった私塾「近思学舎」で、佐江戸村の寺子屋もその一つでした。
 
 
 

そのなかで佐江戸村で小川金蔵が師範(先生)を務めた寺子屋が当時の姿を留めて現存しています。

そこには金蔵師範の子孫の方が居住されており、建物は寺子屋当時の茅葺屋根が瓦屋根に代わっていますが、ほぼ当時のままで、寺子屋教育に使われていた教材や教科書・書物が他の古文書と共に保存されています。
非常に貴重な建物と資料を、子孫代々丁寧に保存されてきたのです。

   明治になってまもなく、学校制度を作るにあたってなされた寺子屋調査によると、川和村、佐江戸村、東方村、池辺村に私塾があり、寺の住職や農民が師範を務めていました。
   
 佐江戸では早くから寺子屋が営まれていたようで、師範の小川金蔵は農業を営む傍ら、国学を志し和歌を学び、寺子屋を通して子供たちの教育にあたり、男児40人、女児18人を教えていました。明治5年に学制が施行されてからも寺子屋を続け、明治20年に役場から解散通告があるまで続けたといわれます。

明治5年に明治政府による学制が頒布されるに至って寺子屋は廃止され、子どもたちは学制に則って出来た学舎で学ぶ事になりました。

小川金蔵は江戸時代から明治となって古い習慣や考え方が改められ、日本が近代化に向かって動き出した時代に佐江戸のために尽くした中の一人でした。 

   
尋常小学校歴史教科書  寺子屋当時の文机と燭台  不明(村の古文書) 
 
尋常小学校 地理教科書  神奈川県令(知事)感謝状   寺子屋で使った文机と教材 


参考資料・・・・・ 秋山 満氏  小川金蔵さんの寺子屋
          荒木 茂氏  ホームページ 暗唱教育
          文部科学省  ホームページ 幕末期の教育
   資料提供   小川家ご当主 

 戻る