つづきひと訪問ロゴ 


 


栗原さん南山田町の栗原毅さん(左)-86歳-を訪問してきた。栗原家の屋号は「大門」。屋号から分かるように、山田神社の真ん前、中原街道に面した所に、お宅がある。

南山田虫送り行事保存会会長を何年もしていらっしゃると聞き、虫送りの歴史を聞いてみたいと思った。以前は、農業以外に、町内会長・連合会長などさまざまな役職をこなしていたが、「今はそれほど忙しくありません」の言葉に甘え、2回も取材させてもらった。

最初は、虫送りの歴史だけを聞くつもりだった。話をしているうちに、栗原さんは生まれてから今までずっと同じ地に住んでいることを知った。ニュータウンの造成で先祖伝来の地を離れた人も多いが、栗原家は造成地区にかからなかったので、そのままである。

もちろん周辺の景観は激変したが、今も、裏手には梨畑やブドウ畑が広がっている。早淵川以南の農業専業地区ならともかく、この辺りで本格的に梨を作っている農家がある。そんな話も聞きたくなった。



長男は農家を継ぐのが当たり前だった 


栗原さんは5人兄弟の長男として生まれた。中川尋常小学校に6年間、高等小学校に2年間通った。弟2人はのちに農学博士、医学博士になったほど学問好きの兄弟だったと聞いている。

「栗原さんも上の学校に行きたかったのではありませんか」

「いやあ、そんなことありませんよ。当時は長男は家を継ぐのが当たり前でしたから。小学校の同級生は42人いましたが、長男はみんな農業を継いでいます」

ちなみに戦前の尋常小学校は男女別学だったので、同級生42人は男子だけ。戦後すぐに中川小学校に入学した人は、「同級生は男女で100人」と言っていた。こうしてみると、長いこと村の子どもの数は変わらなかったようだ。

南堀貝塚「以前は、この辺りはほとんど田んぼ。田植えも草取りも害虫駆除も刈り入れもすべて手作業だったので、よく働きましたよ。周りもそんな農家ばかりでしたから、さほど辛いとも思わなかったです。米を収穫したときの達成感、高揚感は今でも覚えてますよ」

左写真は昭和30年頃の南山田。栗原さんにお借りした「横浜市史資料編」のコピー。小高い台地が、後にのべる南堀貝塚。

「国の減反政策や宅地化が進み、米だけを作っていては農家が成り立たない情況になってきました。それもあって、私の家はトマトやキュウリや小松菜などの畑作に重きをおくようになったんです。ニュータウン造成では、40%の土地を手放さざるを得ませんでした。そのうちに農協や横浜市から”浜なし”の生産を熱心に奨められて、今は梨農家です」


「浜なし」ってなに?


お宅の裏手にある3か所の梨畑を見せてもらった。栗原さんご本人は病気をしたこともあって、梨作りには関わっていないが、長男と孫が作っている。

ちなみに、栗原家は総勢9人。毅さん夫婦、長男夫婦、孫夫婦と曾孫2人、結婚していない孫1人。9人一緒に食卓を囲むと聞き、思わず「4世代同居ですか!いまどき珍しいですね。お幸せですねえ」と叫んでしまった。栗原さんもニコッと笑いながら「そうですね」

訪問した4月は、梨農家にとって、もっとも忙しい時だ。花粉を集めて受粉させたり、良い梨を収穫するために花を落としたり、余計な枝を切り落とすなどの作業で、てんてこ舞いの毎日だという。

梨の花 長男さん お孫さん
 
真っ白な梨の花は息を呑むほどきれい!
花粉を集めるために植えている木

 
摘花作業をしている長男さん
素早い手さばきだ


 
忙しい作業の間に
説明してくれたお孫さん



作業を続けながら、お孫さんが説明してくれた。

「浜なしっていうのは、品種名ではなくて横浜市で認定された果樹生産者団体の統一ブランド名です。昭和60年には、かながわの名産100選に選ばれたんですよ。浜なしの品種は、三水(幸水、豊水、新水)ですが、私の家では幸水と豊水を作っています」

「スーパーマーケットや果物屋ででは、浜なしを見かけませんね」

「市場には出荷しないんです。ほとんどの農家は庭先の直売所で売ります」

浜なしを作り始めた当初は知名度がなかったが、今は需要に生産が追い付かないほどだ。栗原家の直売所にも、たくさんの行列が朝から出来る。完熟して収穫したものを、その日のうちに売るので、新鮮さは言うまでもない。糖度の高さや品質の高さでも人気がある。


南堀貝塚の地主だった 


都筑区には有名な遺跡がたくさんある。中でも南堀貝塚は、今ほど発掘が盛んではない時代(昭和30年7月)に、学者や大学生ばかりでなく、市民や中学生も発掘に参加した遺跡として名高い。話しているうちに、栗原家は南堀遺跡の地主だったことが分かった。そんなこともあって、栗原家には調査結果の報告書が、たくさん保存してある。ガリ版刷の発掘ニュースまで捨てずにとってあることから、思入れの深さが伝わってくる。

発掘本部 中学生 三笠宮殿下
 
南山田の集会所が
発掘本部になった
今のかかし座がある所

 
予備調査で電気探査を
している中学生

 
三笠宮殿下は
発掘にも参加なさった
この日は夜の虫送りの行事も
見学なさった


上の写真は栗原さんから借りた「横浜市史資料編」のコピー。

20歳代後半だった栗原さんは、農作業で忙しくて発掘に参加できなかった。でも自分の土地だし、家も近い。たびたび現場に足を運んだ。都筑には、発掘に参加した人がたくさんいて、いろいろな人から思い出を聞かされた。そんなとき、三笠宮殿下が発掘に参加なさったことは、必ず話題にのぼる。もちろん栗原さんも、殿下にお会いした。

以下は、栗原さんが大事にとってある「南堀貝塚発掘ニュース」から、関連部分を抜き出した。

殿下は、7月22日の昼過ぎにいらして、移植ごてを手にして発掘なさった。3時半から4時までのコーラスの時間には一緒に歌い、作業後は本部となりの今西家でお風呂に入った後、今西家の2階でオリエント学界の近況をお話になった。発掘員と夕食も一緒にとり、夜の9時ころに行われた虫送りの行事も見学なさった。

発掘ニュースによると、殿下は、9時間以上も南山田で過ごされている。一緒に掘った人、一緒に歌った人、一緒に懇談した人、虫送りに参加した人にとって、どんなにか楽しい出来事だっただろう。殿下も楽しい時間をお過ごしだったに相違ない。


意味が変わってしまった虫送り 


訪問の目的だった「虫送り」の変遷記事が最後になってしまったが、今年の7月19日に行われる虫送り行事を準備段階から取材するつもりだ。その様子は別の形でレポートするので、少しお待ちいただきたい。

栗原さんと斉藤さん私は南山田の虫送りの行事に、少し違和感を持っていた。「田んぼが無くなったのに、なんのためにやっているのだろう」の素朴な疑問から取材は始まった。

保存会会長の栗原さん以外に、お囃子を指導している斉藤一雄さん(写真の右側)や裏方を支えている岩崎アサさんも集まってくれた。

「文書が残されていない頃の話は、大勢の記憶を合わせたほうがいいので」という厚かましいお願いを聞いてくれた。


「虫送り」は、稲の穂につく害虫駆除を願って、全国の農村で行われた。江戸時代からの伝統行事だと言われるが、始まった時期ははっきりしない。やりかたも、村ごとに違っていたようだ。

神奈川県都筑郡中川村々是調査書(明治36-1903-年発行)という貴重な資料がある。県内では4か所の村しか調査していない。その中に中川村が含まれているのは、旧中川村に住む都筑区住民には嬉しい。このあたりは、昭和14(1939)年に横浜市に編入されるまで、都筑郡中川村だった。山田・牛久保・大棚・茅ケ崎・勝田に分かれていた。

この村是の「生活および社交」の項目の「臨時の正月」の部分に、虫送りの記述がある。少し読みにくいが原文(左)を載せてみる。

仕事を休んで飲食することを正月と呼び、年に10数回の正月があり、各正月の時は3日ほど休むことができた。田祭り正月と呼ばれていた虫送りは、害虫の駆除という現実的な目的ではなく、農民の楽しみの1つだったようだ。いわば酒飲み会だから、大人の男性が主体だった。

「”飛んで火にいる夏の虫”の言葉通り、松明には虫がよってきますよ。でもそれで虫を殺せるわけではない。南山田の場合は、村境の早淵川で松明を集めて燃やし、いっせいに火を消して隣村に虫を送りこんでしまうんです。送られた村は迷惑ですよね。でも、その村も次の村に虫を送り込んで、最後は海だったらしいです」と、栗原さんは笑いながら話す。

こんな風習も昭和15(1940)年で、いったん途絶えてしまう。戦争にとられる村人が多くなり、田祭り正月どころではなくなった。

栗原・斉藤・岩崎さんの記憶によれば、南山田では昭和22年と23年にも虫送りが行われた。小さかった岩崎さんが笛や太鼓の音につられて見に行こうとしたら、父親に「子どもが行くようなものじゃない」と言われた。斉藤さんも「煮しめや天ぷらを食べた覚えがあるけど、松明など持たせてもらえなかったなあ」と思い出してくれた。

こうしてみると、本来の虫送りは子どもが参加するような行事ではなかった


昭和30年の虫送り次に南山田で虫送りが行われたのは、昭和30年。南堀貝塚の項で書いたように、三笠宮殿下が7月22日にいらした。虫送りは土用に入って3日目にやることになっている。ちなみに今は、土用に入って最初の土曜日。

たまたま虫送りの日にあたっていたこともあり、農協の役員だった伊東真一さんが、殿下に虫送りをお見せしようと提案。ところが、前の虫送りから7年も経ていると、やれる人がいなかった。このときは大棚の青年団が助けてくれた。左写真は栗原さんが持っている「横浜市史資料編」のコピー。

でもこれで復活とはならなかった。誘蛾灯など出来、そのうち害虫駆除の農薬が出回るようになった。南山田でも農薬を空中散布していた時期がある。

虫送りが今のような状態で復活したのは、昭和51(1976)年7月。当時はすでに、ニュータウンの工事も始まっていて、田がなくなるのは時間の問題だった。こんなときに、時代にそぐわない虫送り復活を望む声が住民から上がるはずがない。

復活を強く望んだのは、横浜市の教育委員会だった。文化財課の川口さんは、まず大棚に声をかけたが、殿下にお見せした虫送りから20年以上経っているうえに、中心になる人がいなかったらしい。そんな時に、栗原さんに声がかかった。

芸能大会「川口さんは、伝統行事を残す重要性を熱心に話すんですよ。最後は説得に負けて、復活しようということになりました。何度もここに来て話し合いを重ねたものです」と、栗原さんは昨日のことのように話す。復活1回目の虫送りは、NHKTVの「明るい農村」で全国に放映された。

復活翌年には、無形民俗文化財に”認定”された。「当時は横浜市の教育文化ホールに認定された団体が集まり、”民俗芸能大会”が行われたんです。南山田からもバスをチャーターして参加したんですよ。舞台の上では火が使えないから、懐中電灯などで工夫しましたけど(左)」


平成17(2005)年には、”認定”から”指定”に格上げされた。民俗文化財としての価値が、さらに認められたことになる。

復活からすでに38年が経つ。本来の目的と違って、田がない街中を練り歩く。松明を持つのも、子どもだ。女の子の参加は、以前は考えられなかったことだ。とはいえ、今ではすっかり地域に溶け込んで、夏の風物詩として無くてはならない行事になっている。

「松明の準備、交通の誘導や救護など神経も使うし、おにぎりやアイスキャンデーなどの費用もかかります。止めようと思ったこともありました。でも文化財に指定されていますし、町会や生産班(旧農家の人たち)や子ども会や学校も協力してくれます。地域全体で盛り上げている行事を、止めるわけにはいかなくなりました。」と栗原さん。

「今は町内の人々の災いを追い払う行事になりました。これも時代の流れですね」とも付け加えた。

最後に「虫送りを続けていくことで何か問題はありますか」と聞いてみた。

踊りの練習「お囃子の後継者がいないことです。今は毎週土曜の8時から1時間、笛や太鼓の練習をしています。子どもは入ってくれますが、教える人が高齢化しています。中間層がいないんですよ。それが悩みの種です」

ある土曜日、南山田町内会館での練習会を見学させてもらった。この日は指導者3人以外に、小学校3年から高校生まで11人、大人2人が参加していた。

左の写真は、笛の練習後に踊りの練習をしている小学生。お面姿の無邪気な踊りがかわいらしい。

「水田がなくなったのに、なぜ虫送り?」の疑問から始まったが、少々形は違っても伝統行事には違いない。後継者が出てくることを心から応援したい。       (2014年4月訪問)  (HARUKO記)

つづき”ひと”訪問へ
つづき交流ステーションのトップへ
ご意見や感想をお寄せ下さい