都筑区を拠点にしている「NPO法人結ぶ」が企画したバスツアー(2018年11月26日〜27日)に参加してきた。左はセンター南駅で乗り込む前に撮ったフロントガラス。参加者21名のうち「結ぶ」のメンバーは10名だが、ほかの11名もいろいろな形で活動を支えている人たちである。

「結ぶ」は、センター北駅前広場で毎年行われる「わすれない3.11」の活動などで、知っている方も多いと思う。理事長の図子さんとメンバーの横山さんについては、つづき交流ステーションの「ひと訪問」で紹介しているので、あわせてお読みいただきたい。

メインは被災地に桜の木を植えることだったが、ほかの訪問地や言葉を交わした人達を思い出そうにも、すぐには思い出せないほどたくさんの出会いがあった。これほど密度の濃い旅を企画した「結ぶ」のメンバーさんの力と献身に、敬意と親愛感を覚えずにはいられない。




相馬市松川浦の公園に紅房桜を植樹するのは、被災地相馬と都筑区が桜を通してずっと繋がっていこうという温かい思いがこめられている。

紅房桜など聞いたこともないし、鍬を持っての作業が出来るだろうか。おそるおそるの参加だったが、事前に相馬港湾建設事務所のみなさんが、道具や軍手を用意してくださっていた。私たちは「お手植え」をしたにすぎないが、華やかに咲きほこる光景を想像しながらの作業は楽しかった。「咲いたら見にこようね」などワイワイ言いながら、スコップを動かした。


事前に準備してくれた港湾建設事務所の方の挨拶
 
 
苗木は5本あったので5班に分かれて植樹

 
木製のこの看板を設置した
 
満開の紅房桜 ネットのフリー写真から借りた


紅房桜は、東京世田谷区の盆栽業・増井義昭さんが、台湾の緋寒桜と静岡県のお房桜を交配して、10年をかけて作った新品種。5本の苗木を分けてもらい、相馬に植えることに出来た。「増井さんはお亡くなりになったんだけど、奥様に植樹の報告に行くのよ」と、「結ぶ」のメンバーが話してくれた。

植樹もさることながら、港湾建設事務所の屋上で見た相馬港復興の光景も印象に残るものだった。3.11の時に海辺にあった漁師の家はすべて流された。そろそろ8年になろうとしている今、港・護岸・堤防の工事はほぼ完了したそうだ。「相双の復興は港からを合言葉に復興に努めてきました」と職員は語る。「相双ってなんですか」「相馬と双葉郡をさします

海岸と堤防の間には、住宅を作りませんでした。堤防の高さは7メートルですが、津波は10メートルを超えることもあります。だから堤防に幅の広い階段を作り、津波がきたら漁師や海水浴客が一斉に逃げられるようにしました」と、かずかずの工夫を話してくれた。

天気が良かったせいもあるが、海は青く穏やかだ。地震後に襲ってきた真っ黒い津波など想像すらできない。この海と堤防の内側に建つ新しい住宅を見て、気持ちが明るくなったのは確かである。


事務所の入り口にあった力強い合言葉
 
 
屋上から見た港 鎮魂碑もたっている


震災直後は、「2度と漁業はできない」とほとんどの人があきらめたというが、今はカレイや海苔の特産品も復活した。将来は大型底引き網船も操業できそうだという。

左は松川浦の宿で出た夕食。ほとんどが松川浦で捕れた新鮮魚のオンパレードである。もちろん放射線量は許容範囲だ。

福島産の魚類や農産物の輸入規制をしている国もあるし、残念なことに日本人でも「福島産は買わない」という人もいる。「検査を受けた福島産がいちばん安心ではないか」と、私は思っている。



 


相馬港で復興のきざしを感じたというのに、その直後に訪れた地では「復興はまだまだ」と、暗い気持ちにならざるを得なかった。バスツアーの2日前にIOCのバッハ会長と安倍総理が野球やソフトボールの会場となる福島市を視察。バッハ会長は「復興が進んでいて安心した」の発言をしていたが、福島原発に近い地区の現状を知っているとは思えない。少なくともすべての国会議員に見てもらいたい。


浪江町の中野さん宅 一見すると豪邸だが、内部は
イノシシなどにやられている 解体の順番待ち
 
中野さん宅の元牛舎 放牧していた牛を含め約80頭いたが
殺さざるを得なかった


浪江町立野地区にある旧中野家訪問は衝撃だった。立野地区の農地復興組合事務局長をしている中野弘寿さんとは、夕食の席が前だったので詳しい話を聞くことができた。

大正時代建造という豪邸だが、帰還困難地域に指定されたために、この家には住めなくなった。今の住まいは「いわき市」。ちなみに、震災前は約2万人いた浪江町民は、今は600人にすぎない。

中野さんの玄関には「解体家屋1335」の張り紙があり、家の中はめちゃくちゃ。整理のために中に入ることも許されないからだ。震災前はJAの職員かたわら、米や野菜作り、和牛の肥育に従事していた。牛は放牧も含め約80頭もいたが、避難命令が出ていたために牛を泣く泣く処分したという。

JA退職後の今は、いわき市から1時間半かけて「通い農業」をしている。幕末の頃に住み始めた先祖が残してくれた農地を守らねば「ご先祖さまに申し訳ない」と熱く語る。最近、この地区は帰還が許されたが、帰っている農家はまだ数軒。「除染がすんだと言われても、表土をはぎとっただけでは以前のように豊穣な地にはならない」と、中野さんの怒りはおさまらない。

怒っていても未来につながらない。そこで中野さんら農地復興組合のメンバーが考えたのが作物の転換である。コケとオリーブの栽培に取り組んでいる。車窓からオリーブの木を眺めたが元気に育っていた。

オリーブは、オイルはもちろん、塩漬け、月桂冠にもなる。1000年はもつし、もともと平和の象徴だからね」と中野さん。「寒い東北でも育ちますか」の問いに「もっと北の石巻でも育っているから大丈夫」と目を輝かした。


 


福島県は果物王国だけあり、鈴なりの柿の木を車窓から数十本は見た。食べごろだというのに、誰も収穫しない。放射線量が高かった地域だから、検査を通らないのだという。「もうちょっと熟すと鳥や猿が食べます。動物たちにも影響が出ていますが、どうしようもないんです」と、農家の人はあきらめている。こんな悲しい柿の木を見たのは初めてだ。

「復興はまだまだ」と痛切に感じたことは、もっとある。横浜までの帰路、運転に楽な常磐道を通らずに、双葉町・大熊町・富岡町間は、あえて国道6号線を通った。かつて浪江町に暮らしていた「結ぶ」のメンバー横山さんの説明つきだ。

なんと!この道路は、4輪車は通れるが自動二輪や自転車は通れない。もちろん歩行も禁じられている。4輪車も、窓を開けて通ることができない。放射線量が高いからだ。下の地図にあるように、福島第一原子力発電所が近くにある。
こんな悲しい国道を通ったのは初めてだ。


鈴なりの柿の木だが放射線量が高く食べられない

 

常磐道専用サイトで見た地図 の一部
ピンク色の地が帰還困難区域 薄い緑色の道路は原則通行不可


 


「復興はまだまだ」の項で、土壌汚染や食べられない柿や通れない道路について書いたが、福島は広い。農産物や水産物のほとんどが安全というお墨付きがある。

今回の旅では、「大野村農園」の菊地将兵さん、「果樹園マルショウ」の畠利成さん、漁師の菊地基文さんなど、話を聞いているだけで元気をもらえる素晴らしい若者に出会えた。彼らは都筑区で開かれた会合にも来てくれたが、私はその集いに出られなかった。活動を詳しく書く余白がないが、いつの日かレポートしてみたい。

大野村農園の菊地さんは、ミルキーエッグという平飼で自然に育てた鶏の卵を販売している。黄身がプルプルしていて一度食べたらやみつきになりそうだ。ミルキーエッグを使っているレストランは福島以外に仙台や東京でも増えている。他にも相馬の伝統野菜のサトイモ「土垂(どだれ)」の生産も始めた。ねっとりしていて味わいがあり、これもやみつきになる。

果樹園マルショウの畠さんは、農薬を基準の半分しか使わない15品種のリンゴを栽培して、全国のファンに送っている。夕食時に食べたが、蜜入りで歯ごたえも最高。震災時にお得意さんが3割減ったが、震災後は新たな絆ができたという。

浪江町にあるふるさとカフェ「Oカフェ」の岡さんとの出会いもあった。避難を余儀なくされた自宅の倉庫を改修してカフェを今年の5月にオープンした。「自分たちの居場所、ほっと一息できる場所ができたらいいなの思いで作りました。今は不定期ですが」と言いながら、地元の食材を使った昼食をごちそうしてくれた。

 
夕食前の懇親会
左が畠さん 中央が中野さん 右が清水夫妻

大野村農園のミルキーたまご
農園のサイトから借りた写真


 
果樹園マルショウの15品種のうちの1つサンフジ
マルショウのサイトから借りた写真


Oカフェの昼食 地元産で作った漬物、煮物など
中央は「じゅうねん(エゴマ)のおはぎ 


他にも、以前都筑区に住んでいた相馬の幾世橋さん、宮城県気仙沼の清水夫妻、南相馬の鹿山夫妻との交流もあり、2日間で1年分の出会いがあった気分である。「結ぶ」の旅ならではの素晴らしい2日間だった。

                                   (2018年12月 HARUKO記)

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