はっち(八戸ポータルミュージアム) |
2013年11月に発足した 横浜都筑文化プロジェクト(代表は牧千恵子さん)は、横浜北部(都筑区・青葉区・緑区・港北区)の4区が交流して、丘の手文化を発展させたいとの願いから生まれた。 横浜市の文化政策も「文化コモンズ」の方向に進んでいるようだ。今年2015年5月、横浜都筑文化プロジェクト主催で、建築家・針生承一氏の講演会が開かれた。針生さんが設計した八戸ポータルミュージアム(通称はっち)−左−が、市民にも観光客にも喜びと楽しみをもたらしている・・・という話を聞いた。 ミュージアムの名前はついているが、地方自治体にありがちがハコモノではない。八戸の伝統的な資源(人・物・食・文化)を根底におきつつ、「人と人との交流の場」「新しい魅力の創造の場」「情報発信の場」を作りだしている。 「はっちは、プロジェクトが目指している施設に近いのではないだろうか。実際に見学してみよう!」となり、10月14日〜15日にかけて視察してきた。 プロジェクトのメンバーではないが、発足時から自称応援団のHARUKOが、八戸行に同行取材した。八戸以外に、青森県十和田市の現代美術館を中心とした町づくり、岩手県紫波町の「オガール」の施設も見学してきた。どこも印象に残る中身の濃い旅だったが、今回は「はっち」だけのレポートにとどめたい。
「八戸市の人口は約23万7千人、青森県第2の市です。雪が多いと思っているでしょうが、雪は青森市の3分の1。日照時間も長いです。漁港としても有名ですが、東北最大の工業都市なので大きな港もあります」と、はっちの職員柳沢さんの説明は、八戸の概要から始まった。 「江戸時代は八戸城を中心とした城下町で、古くから活気がありました。ところが市街地の空洞化が問題になってきました。2005年に商工会議所が、八戸の”顔”にふさわしい空間を再生したいとの要望を市に提出。それを受けた当時の中村市長が、三社祭りの山車を置く観光振興の施設を作ることを表明したんです」 「ところが、2005年11月の市長選挙で、現職市長は今の市長である小林氏に僅差で敗退。新市長は『山車会館を作っても市民は一度しか訪れないだろう。市民も観光客も気軽に集まって交流し、賑わいのある空間を再生したい』と表明しました。この市長のおかげで、はっちが生まれたようなものです」と柳沢さんの説明は続く。(左) 八戸で生まれた小林市長は、大学卒業後いっときは県庁に勤務するも、その後自治省に入省。さいたま市の誕生にも関わった。外の世界を知ったがゆえに八戸の衰退を見ていられなくなりUターン。故郷を元気にしたいの思いから、今も3期目の市長を続けている。 理念を持った人がトップに立って、市民が賛同・協力して理想的な場を作りつつある過程を聞くにつけ、羨ましくてならない。八戸の人口と都筑区の人口はさほど変わらない。決定的に違うところは多々あるが、成功モデルがあるのだからあきらめてはいけないと、プロジェクトメンバーは強く思っている。
小林市長のもと、「八戸市中心街振興観光交流施設」の設計者を公募。2007年に針生承一建築研究所が選ばれた。 針生承一さんは、横浜都筑文化プロジェクトのメンバー江幡さんのご主人と大学の建築科で同期である。このご縁で、研究所がある仙台から横浜の都筑まで講演に来てくれたのだが、今回の八戸視察でも、はっちの見学はもちろん、横丁めぐり、翌朝の朝市にも同行。八戸の町づくりに何年も関わってきた針生さんならではの案内をしてくださった。視察が充実したものになったのは、ひとえに針生さんのおかげである。 開館は2011年2月11日。この数字を合計すると8になる。このように、はっちは8にこだわっている。8へのこだわりは、次の3枚の写真でもお分かりだろう。はっちの愛称は公募で決まった。八戸の「はち」が「はっち」になり、英語で「出入り口」や「孵化」を意味するハッチにもちなんでいる。
「こともあろうに、開館からちょうど1ヶ月後に東日本大震災が起こりました。でもこの建物はなんの被害もなく、コップ1つ倒れなかったのです。震災後しばらくは、市民の避難所に使われました」と柳沢さんの口調も誇らしげだ。 建物の素晴らしさは、皮肉にも大震災で証明されたことになる。ハードが立派でも、ソフト面つまり施設の活用が台無しだとなんにもならない。設計業務を委託された針生さんは、オープン後の活用や展開も見据えた企画を、建設と同時に進めることを要求した。 「市はこのために2年間で6000万円の予算をとってくれたんですよ。行政はハコモノにお金をかけても、オープン後のことまで考えないことが多いですが、八戸は違いました。はっちの成功はここにあります」と、針生さんは感慨深げに話す。
オープン後の活用のキーマンは、仙台を中心に活動しているアートディレクターの吉川由美さん。まず地域があって、そこで暮らす人がいて、ひとりひとりが主体になって、ちゃんと生活できるようなやり方が出来ないかを、常々考えている人だ。その吉川さんですら、八戸には手つかずの歴史や文化や独特の食べものや根付いているものがたくさんあることに驚いた。そんな驚きを、はっちの展示やイベントに生かしている。 はっちは5階建。延床面積は6,463平方メートルと非常に広い。すべてのコーナーを紹介したいところだが、次の6枚で想像を膨らませて欲しい。そして八戸まで足を運んで欲しい。
館内めぐりの説明で特に心に残ったのは、2階〜3階の食のものづくりスタジオと4階のものづくりスタジオだ。このスタジオはフードクリエーターやクラフトデザイナーのアトリエショップになっている。安い値段で施設の一画を提供する代わりに、将来的には中心市街地の空き店舗などでの開業してもらいたいと思っている。 生産と販売の一体化、地産地消を実現していることに、心底感心してしまった。実際に商業地で店舗を構えている人も少なくないと言う。
「市街地の空洞化をなんとかしたい」という八戸市民の願いは、かなっているのだろうか。 開館直後こそ、東日本大震災の影響で来館者は減ったが、開館1年後の2012年3月には100万人を突破。その年の10月の調査では、中心街の歩行者は前年比で、全体で40%増、はっち前の通りは145%も増加した。 はっちは朝の9時から夜の9時まで開いている。左写真は閉館直前のはっち。 この時間でも人通りが絶えない。八戸名物の夜の顔、個性的な飲み屋が軒を連ねる横丁8筋もこの周辺にある。「みろく横丁」は真ん前だ。 2012年には「八戸レビュー」とその記録写真集がグッドデザイン賞を受賞した。グッドデザイン賞は50年以上の歴史がある権威ある賞。「八戸レビュー」は、はっちのオープニング特別事業として実施した市民と3人の写真家によるコラボレーションアートである。 翌年の2013年にも、市民参画による地域づくりへの取り組みと仕組みがグッドデザイン賞を受賞した。その他東北建築賞の「作品賞」やデーリー東北賞など、各界から賞賛の声が寄せられている。 2015年今年の6月には来館者400万人を達成した。開館後4年4ヵ月でこの快挙。失礼ながら、冬には冷たい風が吹く本州の北の果て、首都圏から離れた地方都市での健闘に正直びっくりしている。
はっちの事業コンセプトは、地域の資源(人・物・食・文化)を大事にしながら新しい魅力を作りだすことだ。丸1日の滞在では八戸の資源をつかみきれなかったが、「これに違いない!」と思ったものはいくつかある。 その1つはみろく横丁だ。こういう横丁が8筋あり、8へのこだわりは、横丁の数にまでおよんでいる。はっちの前にある「みろく横丁」は、三日町と裏通りの六日町をつなぐ全長80mの路地。三日町の三と六日町の三と六をとって「みろく」と名付けた。 この横丁では、25軒の固定式屋台が営業している。ひとつの屋台は3.3坪と狭く、客席は8席ほどしかない。屋台のいいところは気取らないところ。隣り合った人と会話がはずみ、新しい出会いが生まれる。屋台村の店は、数年おきに総入れ替えされる。全国の飲み屋横丁の中で、店を総入れ替えするなど他では聞いたこともない。 2つ目は針生さんが予約してくれた「新むつ旅館」。遊郭が認めらていた時代、この一帯の遊廓街は賑わったと聞く。新むつ旅館も、1898(明治31)年開業の元遊郭だ。磨きこまれた黒光りする木部は、ほれぼれするほど美しい。格子戸やY字型の階段や隠し部屋が、遊郭の雰囲気を残している。最近、文化財建造物に登録された。女将さんは「誇らしいけれど維持するのは大変。でも頑張っていくつもり」と前向きだ。こんな女将さんと市民の支えがある限り、八戸の文化財は安泰のような気がする。 3つ目はJR陸奥湊駅前の朝市。八戸には何ヶ所も朝市があるが、ここはいちばん大きい。新鮮な魚や野菜が並ぶ。「イサバのカッチャ」と呼ばれる魚商のお母さんたちの威勢のいい掛け声が響き渡る。イサバのカッチャは観光客にも優しい。お客との会話も弾む。市場で食べた朝食の美味しさも忘れられない。
針生さんの講演に刺激されての八戸訪問だった。百聞は一見にしかずの通り、肌で感じ取った収穫は大きかった。 (2015年10月取材 HARUKO記) |