都筑区茅ヶ崎南2丁目にある日本ヒルティ株式会社を、3人で訪問してきた。市営地下鉄「仲町台」から徒歩5分、地下鉄の高架をはさんで独逸(ドイツ)学園と対している。

HILTIという白い文字と赤のコントラスト(左)は遠くからでもよく目立ち、はじめての訪問でも迷うことはない。

世界的な外資系企業、しかも一般消費者ではなくプロユーザー向けの製品を販売している会社。横文字や専門用語が理解できるだろうかと、少々心配しながらの訪問だった。

でも、コミュニケーション・イベント・スペシャリストのTさんと、コミュニケーションマネージャーのDさんの分かりやすい丁寧な説明のおかげで、心配は杞憂に終わった。


    ヒルティコーポレーションの販売地域は世界120ヵ国以上

日本ヒルティの社名を知っている日本人は少ないと思うが、リヒテンシュタイン公国(スイスとオーストリーに囲まれた人口約35,000人の国)のシャーン市に本社をおくヒルティコーポレーションは、世界120ヵ国以上に拠点をおく世界的な大企業である。特にヨーロッパでのシェアは、非常に高い。

リヒテンシュタインのヒルティ兄弟が、わずか5名の小さな工具製造の作業場を設立したことに始まる。第2次世界大戦中の1941年のことだ。軍艦の鉄板を打ち付ける需要があったのも、大戦中ならではだろう。

70年後の今も、基本的には同じ業務である。土木・建築・設備のプロユーザー向けの電動工具(ハンマードリル・ハツリ機など)・鋲打ち機・アンカー・計測機器などを製造販売している。左写真は1階ロビーに展示してある工具のひとつ。

後日、社長に会ったおりに「ヒルティの製品は価格が高いそうですね。にもかかわらず、支持されている理由はなんですか」と聞いてみた。

「機能や性能の良さはもちろんですが、疲れにくく洗練されたデザイン、盗難防止など性能に現れない部分にも気を遣っています」。

「100年以上の耐久性を見据えて、フルサポートをしていることも評価につながっています。あるビルを造るときに、設計の段階から相談にのります。建築の場でも、のちにリフォームすることになっても、さらに解体することになっても、全面的にサポートします。保証期間も長くしています」。

ヨーロッパでは、数100年以上経っている建物など当たり前だ。日本でも政府が100年住宅を提唱しているときだけに、「長い期間に渡ってフルサポートをする」という社長の言葉が、ことさら印象に残った。


 都筑区に移転したのは20年前

日本ヒルティは、商社の伊藤萬との合弁企業として1968年に設立された。1968年といえば、まだ1ドルが360円のころ。こんな時代に、少々価格は高くても品質が良いヒルティ製品を求めるユーザーがいたことに驚く。

20年前に、東京の文京区から、ここ都筑区に本社を移した。もともと独逸学園が所有していた土地を、譲渡された。横浜に本社をおいたことで、横浜の持つ国際的で豊かなイメージと、会社のイメージがマッチしたという。

本社勤務は130名。ほかに東京配送センター・中央倉庫(大阪)・サービスセンター(岐阜県)があり、全従業員は525名(2009年12月)。

2008年に就任した社長は、スイス人のマルコ・アマンさん。

1階ロビーで待っている間にまず目についたのは、社内電話で来訪を告げる無人の受付(左)である。赤と少しの黒を基調にした洗練されたデザインに、私たちレポーターはすっかり魅了されてしまった。

展示してある工具もすべ、赤を主体に少しの黒色を使っている。そういえば、駐車場にある会社の車もすべてこの色調だ。


   大桟橋国際客船ターミナルの鋼鉄製のオリガミ

「世界中の有名な建築に、ヒルティの技術が使われていると聞いています。代表的な建築はなんでしょうか」と、TさんとDさんに質問してみた。

「モスクワのモスクワシティ(新都心)・ドバイのブルジュ・ドバイ(世界一高いビル)・中国の鳥の巣(オリンピックメインスタジアム)・ドイツのミュンヘンアリアンツアリーナ(ワールドカップメインスタジアム)・横浜の大桟橋などたくさんあります」と、それぞれの写真を見せてくれた。どれも斬新なデザインのものばかりだ。

横浜の大桟橋は、2002年のワールドカップにあわせて、リニューアルオープンした。ときどき大型客船が横付けする大桟橋は、みなとみらい地区が一望できるウッドデッキを多用したおしゃれな空間。みなと横浜の人気スポットでもある。

何度か遊びに行っているが、ヒルティの技術なしでは出来なかったという鋼鉄製のオリガミを見過ごしている。ということで、ヒルティ訪問の数日後に大桟橋に行ってみた。

国際客船ターミナル・出入国ロビーの天井(長さ500メートル、幅100メートル)は、たしかにオリガミ(下の写真中)のように見える。この斬新なデザインは、ヒルティの技術なしには施工できなかった。ヒルティ社が開発したステンレスに亜鉛メッキをしたネイル(下の写真右)が、耐火鋼鉄製の折板建築を可能にしたのだという。従来のネイルでは、斬新なテクノロジーとデザインには対応出来なかったらしい。

大桟橋一部。建物の屋根にあたる部分は「くじらの背中」とも言われ、散策できる。鋼鉄のオリガミは、この建物内部の天井に使われている。 鋼鉄製のオリガミ。従来の溶接技術では薄い鋼板が反り返ってしまうことから、特殊ネイルが考案された。 斬新なデザインを可能にした特殊ネイルは、意外に小さい。この写真は「ヒルティマガジン」から借用。

こんな身近な所に、ヒルティの技術と製品が使われている空間があることに感激してしまった。大桟橋を訪れた方は、ぜひとも出入国ロビーの天井をしげしげと眺めてほしい。


   アレキサンドリア沖の海底調査をサポート

私がヒルティの名前を知ったのは、「パシフィコ横浜」で2009年6月27日〜9月23日まで開催された「海のエジプト展」の時。横浜開港150年の開国博にあわせての展覧会である。70万人以上の来場者があり大成功だった。

広い会場の一画に、ヒルティのブースがあった。何気なく入ってみると、いろいろな工具が展示してある。「この工具を使って発掘したのかしら」と最初は思ったが、これら工具と発掘はなんら関係がないことがわかった。説明には、ヒルティ財団が、エジプト・アレキサンドリア沖の海底調査を、1996年以来、全面的にサポートしていると記してある。

8世紀頃に地震や地盤沈下で水没したアレキサンドリア沖の海底遺跡の存在は、以前から知られていた。でも視界が悪く粘土層の下に潜っているので、誰も手をつけなかった。困難な発掘に取り組んだのが、フランスの海洋考古学者・フランク・ゴディオ氏とそのチームである。ゴディオ氏の情熱もさることながら、一企業が、これほど大規模な発掘を全面的に支援していることに、「カッコイイ会社だな」の思いを強くした。

私は1996年の11月はじめ、エジプトに遊びに行った。まさにその旅行中に、最初の遺物が海底から引き上げられたのだ。帰国後に見た新聞記事を、今でも保存してある。「クレオパトラの宮殿跡をフランスの調査隊が発見−アレキサンドリアの港の海底から−」と見出しがついた、1996年11月4日の朝日新聞である。

こんな出会いがあり、しかも日本ヒルティの本社は都筑区にあると知った。「ぜひとも日本ヒルティを訪問したい」の思いは、3ヶ月後にやっと実現した。

アレキサンドリア沖の海底から大きな石碑を引き上げている。ヒエログリフ(象形文字)が彫ってある貴重な史料。
潜水服も赤と黒のデザイン。腕には白文字でHILTIとある。
上は、エジプト博のオープニング。主催者・中田横浜前市長・ゴディオ氏らが並んでのテープカット。
下はヒルティのブース。ヒルティの社員が毎日詰めていた
そうだ。
高さ5メートルもあるプトレマイオスのファラオの巨像を前にして説明するフランク・ゴディオ氏。

(これら4枚の写真はヒルティ提供)

1996年に設立されたヒルティ財団は、今も続いているアレキサンドリア沖海底調査をはじめ、3つの分野(「芸術・文化」「社会」「教育」)で、様々なプロジェクトを継続的に支援している。

ごく身近な例としては、独逸学園に通うスイス人の子どものために専任教諭を提供している。独逸学園に通うスイス人の子どもは今は5名。その5人のために、スイスの歴史などを教えている。ドイツの学校にあってもスイス国民の自覚を持たせようとの心遣いだろう。

不況になると、社会貢献を放棄してしまう日本企業に比べ、ヨーロッパ企業の懐の深さに感心してしまった。社会に貢献することも企業責任だと考えていた創業者ヒルティ氏の精神が、受け継がれているようだ。


   都筑の人たちともっと付き合いたい

TさんとDさんに写真を撮らせて欲しいと頼んだところ、「写真を載せるなら社長ですね。社長と会う段取りをします」と、言ってくれた。これまでの企業訪問で社長に会えるチャンスはほとんどなかっただけに、ワクワクしながら、再度、日本ヒルティを訪れた。

さっそうと現れたマルコ・アマンさん(左)は、フレンドリーなうえに、ご覧のとおりダンディ。ヒルティの赤いシャツがよく似合う。

日本語も上手。スカラシップで来日後、日本の化学メーカーに勤務。ヒルティコーポレーションにヘッドハンティングされ、今に至っている。途中でスイス勤務はあったものの、通算15年間、日本で生活している。

もともと日本の文化・歴史や高い技術力に興味があったので来日。日本料理が大好きで「僕が若い頃の体型を保っているのは日本食のおかげです」とアマンさん。

スイスと日本の両国を熟知しているアマンさんに「外国とくらべ日本の顧客の特徴はなんですか」と聞いてみた。

「日本人は細かいこと、特に仕上げを気にします。見た目の質の高さが要求されます」という答えだった。

「では日本の社員とヨーロッパの社員には、どんな違いがありますか」と質問を重ねた。「日本の社員はほんとうに一生懸命努力をします。遅くまで仕事をしているし、休暇もめったにとりません。”有給休暇をとろう!”のキャンペーンをしたにも関わらず、休暇をとったのはごくわずかな人たちでした。スイスでは、7時にはほとんどの人が帰ってしまいます」。

「僕は、同じ仕事を短い時間でやって欲しいと思っています。空いた時間を仕事以外のことに使って欲しいんです。そのためには何をしたらいいか。業務改善に取り組んでいるところです」の社長の言葉からは、社の発展もさることながら、社員の幸福を考えている姿勢が伝わってきた。

「ところで社長は休暇をとっていますか」「ハハハ〜。僕は仕事が大好きなんです。めったに休みはとりませんよ」。欧米の社員はバカンスを長くとると聞いていたので少し意外だったが、トップに立つ人は仕事が大好きなのかもしれない。

「都筑区に移転してから20年間も経つのに、区民の方とのお付き合いは少なかったのです。これからは地域の人たちと、もっとお近づきになりたい。どんな形で貢献できるか考えましょう」の、嬉しいひとことを最後に聞くことができた。「つづき交流ステーション」のキャッチフレーズである「つなごう人の輪」に繋がる訪問になった。
                                           (2010年1月・2月訪問 HARUKO記)

他のレポーターの感想
地域の企業・施設訪問のトップページへ
つづき交流ステーションのトップページへ
ご意見や感想をお寄せ下さい